昨日の続きです。

 

一方、この一言主が古事記(712年)に登場するのは「下巻」(雄略帝段)に入ってからなので、神々の中でも比較的「新しい」(時代に出現した)存在のようにも思えます。葛城山で狩を催していた大王の前に「装束や人数」まで帝の一行と良く似た鹵簿が現れます。不審と怒りを覚えた雄略は弓に矢を番えて『名を名乗れ』と詰問したところ『吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神ぞ』との答えが返ってきたと記は伝え、日本書紀(720年)は「雄略四年春二月」の出来事で、二人は「面貌容儀」相似ていたとも記し、一事主神と名乗った相手と帝は「與に遊田(かり)」を楽しみ、日暮れて家路に就いた帝を久米川まで神が見送ったと記録しています。つまり、この一言主(一事主)という神格は、応神王朝の正嫡である雄略帝の偉大さを最大限に引き出すための「相方」として記紀編集者たちによって創造されたものだった可能性があります(帝室と葛城氏との『対立』と討伐の過程を知る者にとって、両者の優雅な立ち居振る舞いは如何にも作り物めいて見えます)。

何より「続日本紀」の記述には「葛城の神」の姿は無く、ある人(行者と対立する側の人)が「讒以妖惑」したことにより配流されたのだと明言しており「讒言」した人物と葛城の地との関連つながりなどは一切触れられてはいないのです(更に言えば、その人物は悪意を持って役行者を貶めようと画策したに違いありません)。古代において「呪法」は最高の知識であると同時に、誰かに「呪い」をかける事の出来る大変危険な手段でもあった訳ですから、朝廷内に立場を得ていた人物が『役小角が呪法で人心を惑わせております』と正式に訴え出たなら、朝廷も真剣に対処する他無かったものと思われます。さて、その行者の出自については、どの資料を当ってみても「葛城を本拠地とする賀茂一族の出」とあり、地祇を祖とする賀茂氏の一流だと解説していますが、その論拠となる具体的な系譜などを示すものは見当たりません。恐らく、日本霊異記と土佐風土記(逸文)にある記述が唯一とも言える傍証とされているのだと思われますが、風土記の逸文は『その(一言主)御祖は詳かならず』とも伝えており「一言主尊」が、必ずしも味鋤高彦根命の亦名では無い可能性すら示唆しているのですから、行者と同神との「対立構図」そのものが創作であったと考えられなくもありません。又、何より古代の人々が自らの祖神を取り分け大切にし尊崇していた事に思いを馳せるなら、役小角が葛城の郷を護る神々を蔑にしたとは到底想像出来ないのです

さて、その行者を「賀茂氏」の一族であると日本霊異記が明言している訳ですが、一番初めに照会した「続日本紀」は、ただ「役君小角」としか記していません。二つの資料が編纂された時期には凡そ一世紀ちかくの時間差があるので、この間に「役君」が「賀茂役君」という姓を賜った可能性は確かにあります。その根拠の一つが「続日本紀」にある次の一文です。

 

つづきます。