最近、高校関係者と話すことがありまして、色々と気になることをご指摘いただいたのですが、その中で一番気になったのが「大学進学先を選ぶ際の重要な要素として『仕送りが出せるかどうか』というのが近年重きをなしている。その結果、東京方面への進学を断念する学生がいる。」ということでした。


 それ自体は昔から変わらないことなのですが、特に最近はその傾向が強いというのを強調され、とても気になりました。ということで、北九州にある幾つかの高校の進学状況を見てみたら、たしかに私の時よりも東京への進学をする高校生の数がガクンと減っています。


 別に東京だけがすべてではないし、それだけですべてを判断するのは正しくないでしょう。ただ、東京には色々なチャンスと情報が溢れているというのは厳然たる事実です。金銭的な事情を理由として進学の可能性が狭められるというのは、とても残念なことです。


 これは自分自身の深いところに関わります。私はこれまでの人生で色々なチャンスを与えてもらいました。大学に入った時、周囲を見て裕福な家庭の人が多かったことに(多分、必要以上に)奮起しました。当時、私の大学の親の平均年収は1200万円。私の家庭の3倍近かったです。同級生の家にお呼ばれして、あまりの環境の違いに驚いたものです。外務省に入った時は尚更でした。


(どうでもいいことなのですが、この関連で、私は昔から「お」を付けるのは何処まで許容されるか、というテーマを持っています。「茶」は「お茶」でOKです。さて、「紅茶」はどうでしょう。18歳の時、同級生の家で「お紅茶」と言われて、「ん、そこで『お』を付けるか?」と疑問に思ったのを思い出します。極めて些細なことなのですが。)


 いつも思っていたのは「負けてたまるか」ということでした。親の収入、出自、そういうものに関係なくチャンスは平等に与えられている、そういつも思っていたし、今でもそういう気持ちです。ちょっとした「僻み根性」なのかもしれませんが、そう思われても一向に構いません。


 フランスにいた際、ピエール・ブルデューという有名な学者の「再生産(reproduction)」という本を読んだことがあります。これは何かと言うと、ブルデューは「単に裕福な家庭の子が進学で有利というだけでなく、文化資本(上品で正統とされる文化や教養や習慣等)の保有率が高い学生ほど高学歴であることを統計的に証明した。またその子供も親の文化資本を相続し、同じく高学歴になることも統計的に証明した。彼はこれを文化的再生産と呼んだ。特権的文化の世代間継承と、学校がそれに果たす役割を解明。(ウィキペディアより)」という研究をしたということです。フランス版格差社会といったところでしょう。


(思いなおしてみると、ブルデューのような研究が日本には少ないですね。社会学者、教育学者の方の奮起を求めたいものです。)


 当時から、私は「日本をこういう社会にしてはいけない」と感じていました。しかし、今、眼前にあるのはこういう世の中ではないかと懸念しています。


 今の日本には「名目上の機会の平等」というのは与えられています。今、問われるべきは「実質的な機会の平等」なのか、その「実質性」はどう確保されるべきか、ということです。別にアメリカ的な「アファーマティブ・アクション」までをも唱えるつもりはありません。ただ、少なくとも収入の面で何かを断念するような環境だけは解消していきたいと強く思います。私はあまり教育行政は詳しくないので、単純なモノの言いにしかなりませんけど、これは強い信念として持ち続けていきたいです。


 「『再生産』なんて蹴散らせ」、今日のエントリーは纏めるとそういうことです。