かつて、中央官庁にいた身から今の国会を見ていると、あまりの様変わりに驚きます。閣僚が自分の言葉で答弁している姿、ガランとした政府参考人席・・・、これは本当に良いことだと思います。


 ただ、その中でちょっと「これはもうちょっとやってくれていいんじゃないか?」ということがあります。それは「答弁で紙を読むこと」です。これまでは「役所の書いた紙を読むのは、政治家が操られているからだ。」という論調で、比較的否定的に捉えられていたことです。


 それはそれで正しいのですが、例えば厳格な法律解釈、政府統一見解・・・、そういうものは紙を読んでもらう方がいいと感じることが時折あります。そういうものについては紙を読んだからといって、別に政治主導の否定でも何でもないわけです。問題なのは、中身も理解していないのに紙を読むということであって、十分に調整しきったものを読み上げるというのは、時には必要です。


 日本の国会というのは「審議」の場であると同時に、「政策表明」の場でもありました。国会答弁を通じて、カチッとした見解を表明するというケースは数多です。それが国の政治を大きく動かすようなものであれば、あまりそこで答弁する毎に内容が異なるというのは望ましいことではありません。


 逆に考えると、ある重要イシューについて微妙にニュアンスが違う答弁がなされることが通例化すると、今度は後世を拘束するような「政策表明」の位置づけがどんどん下がってしまいます。例を挙げましょう。北方領土については「四島の帰属に関する問題を解決して平和条約を可能な限り早期に締結する」というのがこれまでの方針です。これが例えば「四島に関する問題を解決して平和条約を・・・」と「の帰属」が落ちるだけで意味合いが相当に異なります。「平和条約を可能な限り早期に締結して、四島の帰属に関する問題を解決する」と言えば、もう全然ダメです。


 まあ、そういうことで、「紙を読む」こともやるべき時にはやるべきだと思います。繰り返しになりますが、それは決して政治主導の否定ではありません。