私が最近、色々な政策を語る時、特に気にしていることがあります。それは「『争い』のあることが言えているか?」ということです。これだけだと意味不明なので敷衍します。


 最近、「誰が聞いても100%賛成できること」というのを訴えないようにしています。それは「中身がない」からです。「住みやすい街を作ります」、当たり前です。住みにくい街を作りたい人はいません。「高齢者に温かい街づくりに励みます」、高齢者に冷たい街づくりをしたい人はいないでしょう。そういう意味において、「100%賛成できる」政策なんてのは当たり前すぎて、それ自体意味がないという思いを持っています。


 政策というのは、とどのところ取捨選択の芸術だと思います。無尽蔵にリソースがあれば何でもできるでしょう。それがそうではないから政治の働く余地があるわけで、結局何かを選択する代わりに、何かを切るということが現実の政治には不可欠だと思っています。「選択」とは、「それ以外のオプションを切る」行為だと私は特に強く感じています。


 例えば、「出産・子育ての支援に力を注ぎます」、これだと100%賛成できますね。出産・子育ての支援に力を注がないのは、人口が増えすぎて抑制策を推奨していた某国くらいです。今の日本ではありえないことです。私は「他の予算を削ってでも、出産・子育ての支援が必要だと思います。何故なら、国の大本は人であり、どんなに立派な公共工事をしても人が減っては意味がないから。」と言うようにしています。ここでは「他の予算よりも優先順位を上げて、他の政策課題に食い込んでも出産・子育て支援を優先する」という選択をしているつもりなのです。かつて、「その『他の予算を削ってでも』というのは何だ?」とご指摘を受けたことがありました。そして、激しい議論になりました。そのプロセスを大事にしたいと自分では思っています。


 帰結としては賛成できないところの多い、小泉総理の郵政民営化も発想は同じですね。手法に批判が集まることが多いですが、私はああやって「争いのあること」を論点に挙げることは、日本の民主主義の成熟にとって、とても意味のあることだと思います。「住みやすい日本を作ります」的な政治家だけしか出てこなくなったら、日本の政治はポピュリスト化が完了してしまっており、もう終わりです。


 と、思って、自分のウェブサイトや広報資料を見てみたら「100%賛成できる」話のオンパレードでした(笑)。何も言い訳しません、自省します。新人で選挙に初挑戦、自分の実力も測りかねる身としては、なかなか「争いのあること」が言いにくいんだよなと囁くもう一人の自分がそこにはいます。こうやってもがく姿も含め、温かくお見守りください。