少し前に(その1)(http://ameblo.jp/rintaro-o/entry-10012744755.html )で、今の与党で繰り広げられる議論への違和感を書いてみました。簡単に纏めると、憲法では日本国ができることのルールを決めずに、衆議院で過半数を取れば改正できる法律(安全保障基本法)ですべてを決めていこうというのはおかしな話だということです。


 そもそも、私は「憲法で安全保障を論じることの不幸」というのがあると思います。憲法の場を用いて国家の安全保障を論じる国が他の何処にあるでしょうか。国の大本である憲法は憲法として考え、その枠内で安全保障の政策論を論じる、それが当たり前の姿なんじゃないかと思います。そんなことを言っても誰も耳を傾けてはくれないのかもしれませんが、憲法論と政策論がごちゃ混ぜになっていることは、私は日本にとって不幸なことだと考えています(勿論、憲法も大きなスケールで見れば政策論の一部ですが)。そういう観点からも、憲法でどういう安全保障環境を構築していくかみたいな議論はせずに、日本は何をやってやらないのか、という基本的なところにエネルギーを凝縮させて、その後、憲法の枠内で日本の安全保障を政策論としてどう構築していくか(安全保障基本法)という作業スタイルを確立すべきでしょう。憲法の章立ての柱書きに「安全保障」などと書く(現在の自民党案)のは、私にはとても違和感があります。


 じゃあ、どう考えるかということですが、私の考える作業メソッドは以下の通りです。

1. まず、「日本がやること」について非常に大きな原則を打ち立てる。

2. その後、典型的なケースをベースに個別ケーススタディをやってみる。

3. それを受けて、文言調整に入っていく。


「あったりまえ!」と思うかもしれませんが、今はこういうスタイルでは進んでいません。いきなり3.です。そこから2.に戻って、その中からボワッと1.が浮かび上がってくるかも?くらいの感じに見えています。憲法くらい大きな話になると、作業のやり方から重要ですから、ここはしっかり押さえておきたいなと思います。結論として出てくる法案がどういうものになるかはともかくとして(もしかしたら、今の自民党案と同じものになるかもしれません)、順序をしっかりやっていかないときっと憲法改正は失敗します。


 私は「大きな原則」と言う時に、集団的自衛権とか個別的自衛権とかそういう分類には入っていきません。あれはあくまでも国連憲章上の便宜的な分類学だと思います。集団的、個別的というのは「あるべき姿」を追及した「結果」として考えれば良い話であって、議論の「スタート」にあるべき問題ではないと思っています。しかも、「ここまでが個別的、ここから先は集団的」という議論がともすれば訓詁の学になってしまうおそれがあります。もう少しシンプルに考えることができるんじゃないかと思うわけです。


 根源的に考えた時に、日本はそもそも何がしたいのでしょう。私は大体において以下のようなことがしたいのではないかと思っています(法文ではありませんので一言一句の精査はしていません)。ただ、これは相当に争いがあると思うので、別に押しつけるつもりはありません。

● 他国との紛争を解決するため、戦争、武力による威嚇、武力の行使は放棄する(今の9条1項とほぼ同じ)。

● 上記のルールを遵守する中において、日本の平和及び安全に対する脅威が存在する時は(武力の行使を含め)これを排除する。

● 主要国が加わったかたちでの国際的な協調の下で行われる活動には(武力の行使を伴うものも含め)積極的に参加する。


 まあ、こんなところではないでしょうか。1つ目の●は争いがないでしょう。2つ目の●は反対する人がいるかもしれませんが、現代社会では比較的少数派だと思います。3つ目の●の「国際的な協調の下」は「国際連合の下」と主張する人もいるでしょうが、私は今一つ、国連という組織自体に対する印象(それは安保理とは別物ということは分かっているのですが)が良くないのでどうしてもそう言いたくない気持ちがあります。


 これに加えて、平和主義(専守防衛)、必要最小限度の武力、シビリアン・コントロールなどを原則論に持ち込んでくる方もいます。私はいずれも否定的です。これらの概念そのものについては賛成なのですが、それぞれ以下のような疑問があります。


○ 平和主義(専守防衛):何故か日本では専守防衛と言うと、専守以外の武力は持つなという議論になり、では専守防衛限定の武力は何かという議論にすぐに行くのです。「専守防衛」と「専守防衛用以外の武力は持つな」という議論とは全く別です。平和主義に至っては、すぐに「武力を使うことは如何なる意味においてもダメ」みたいな方向に行ってしまいます。私がいつも思うのがスイスの例です。スイス=永世中立国、美しい響きです。平和主義の国というイメージも強いです。しかし、スイスは中立であるためにカントン(州のようなもの)がそれぞれ民兵隊のようなものを持っています。しかも、第二次世界大戦中、中立を貫くために領内に入ってきた連合国の戦闘機を武力で追い返そうとしたという話もあります。平和主義に徹するためにはそれなりの覚悟と腕力がいるという例かもしれません。

○ 必要最小限度の武力:相手が撃ってこない限り、こっちも撃っちゃダメとか、そういう議論は止めにすべきでしょう。本来「必要最小限度」という言葉はそういう狭量な使われ方をする言葉ではありません。ただ、相手と同じレベルでやんなきゃダメよ、すべてにおいて、みたいな解釈のされ方をするこの言葉。とても危険だと思っています。(あまり政策論を絡ませてはいけませんが、)これからの世界では武力の公使については、色々な意味で非対称な相手(テロリストなど)が対象になるケースが増えるでしょう。相手がピストルしか持ってなくても、こっちが数倍の武力を持って退治しないといけないこともあるでしょう。

○ シビリアン・コントロール:よく分からないのがこの言葉です。これを「民主的統制」と訳す人がいます。そこから「武力の行使に際しては国会の事前関与」を求める人もいます。しかし、普通、シビリアン・コントロールと言えば、文民が軍人に統制を効かせることを言うわけで、それは文民がきちんと統制しているということでしょう。それは首相、外相、防衛庁長官が(広田内閣以降の陸軍大臣の現役武官制のようなものではなく)軍人でなければ満たされるというのが言葉の正しい解し方だと思います。よく「国会の関与」と言っているのは、シビリアン・コントロールではなくて、パーラメンタリアン・コントロールではないかと思うのです。言葉の遊びのように思えるかもしれませんが、シビリアン・コントロールという美しい言葉だけで国会の関与を導き出すのは違和感があります。今、よく言われているのはせいぜいデモクラティック・コントロールか、パーラメンタリアン・コントロールです。なお、防衛庁の制服組には「現場を知らない事務方にあれこれ指示されるのがシビリアン・コントロールか、アホらしい」という思いがあるようです。私はそういう制服組の方にとても同情的です。


・・・と好き勝手に書いたところで、もう少し思索を巡らせるべく考えてみます。諸姉諸兄の厳しいご意見をお待ちしております。