1962年ミサイル危機の背景(O.ストーンの視点) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

2ヶ月前、それも「再放送」でしたが、NHK-BS1でドキュメンタリー・シリーズ『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』(全10回)が放映されました。
 私は録画したことに安心して“ながら族”で見た程度なのですが、知り合いのKさんが配信してくれたメールにその内容が2度に渡り詳細に解説されていました。それで、拙ブログに掲載したいと思っていたところ、昨日お会いした際に許可を頂くことができました。「キューバ危機」とも称される「世界的(全人類的)危機」について、「THIRTEEN DAYS」 の1週間前に当たる51年後の今日、危機に至る背景をk氏=オリバー・ストーン監督を通して見てみましょう。
以下、kさん発サークルメンバー宛てのメールをそのまま掲載いたします。


✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾


8月6日の広島、9日の長崎の原爆記念式典にオリバーストーン監督が出席したニュースを皆さん御存知かと思いますので、「語られざる米国史」の4回目と5回目をご紹介します。(既に1~3回目までは日本でも本になって発売されています。
題名は「オリバーストーンが語る もう一つのアメリカ史1~3」早川書房刊)

原爆投下は日本との戦争を早期に終わらせる為と云うのは、「米国は常に正義」だと信じて疑わない米国民へのレトリックでしかなかった。
本音はナチスを倒した後に台頭するソ連を抑えて、米国が世界の覇権を握る為の「脅しの道具」として世界に見せつける目的でタカ派のバーンズ国務長官がトルーマン大統領を上手く操縦して決断させたと「語られざる米国史」の3回目でご紹介しました。


4・5回目は第二次大戦後のトルーマンとアイゼンハワー大統領の16年間に焦点を当てます。
アメリカが核兵器を脅しの道具に使って、徹底的にソ連と対抗します。そして世界の覇権を英国から奪ってく実例を上げて行きます。
即ち、ソ連崩壊まで続いた「冷戦構造」「核開発競争」とはアメリカ自身が仕掛けて、ソ連がその対抗策として、アメリカの真似をして行ったことが分かります。


第二次大戦終結直後、先進国の殆どは自国の領土が戦場になり、多数の死傷者(特に労働人口の損失)、社会インフラの破壊、経済社会の崩壊に苦しんでいました。アメリカだけが戦場にならず、死傷者は桁違いに少なく(民間人の死傷者はゼロ)。又、戦時物資の供給国として、アメリカ経済は一人勝ちでした。(工業生産は年率15%の成長率を維持し、輸出は戦前の2倍。世界中の設備投資の3/4, 世界の金保有の2/3がアメリカに集中していました)


先進諸国が戦後疲弊して、経済的な余裕もない、どさくさの最中に、アメリカにカネと富が集中していたのを活用して、戦後(1945年)直ぐに世界銀行とIMF(国際通貨基金)を創設し、本部をワシントンに置きます。要は世界の金融のシステムを、イギリスからアメリカ中心に組み立て直してしまったのです。その体制が現在まで続いています。
戦争で疲弊していた欧州各国や日本の国民は貧乏なり、生活苦から社会主義的な風潮を求めるようになりました。日本も含めた先進各国で社会党や共産党が選挙で大きく伸張しました。それはソ連の共産主義の介入を誘発する恐れが米国にはあったので、先進各国の経済復興を支援し、豊かさを取り戻させたのでした。それは、反共国家網を作り、ソ連を囲い込む意味でした。(K注;日本やドイツが焼け跡から急速に経済復興出来たのは、国民の頑張りがあったのは大きな要素ですが、米国の対ソ世界戦略の庇護があったことも否定出来ません。)


一方、アメリカ国民も戦争に疲れ、新たな戦争には全く興味を示さなくなりました。そこでトルーマンは「アメリカが世界の警察官」になると云う、新たな国家像を提示しました。同時に、共産主義の恐ろしさを米国民に過剰に刷り込む情宣活動を積極的に行いました。
警察官が取り締まるべきは共産主義の悪者達と云うイメージを植え付けさせました。この時期の1948年からの6年間で、共産主義は火星人の攻撃のように恐ろしいとの情宣映画を40本もハリウッドに作らせています。(K注;1929年の大恐慌後の長引く大不況で米国民は内向きになり対外戦争に全く興味を示していなかったのです。それを戦争に駆り立てたのは、日本人悪者論を流布することでした。日本人を人間以下の変わった動物として、米国民に刷り込んだのと全く同じ手口です。悪者を日独からソ連に変えただけでした。最近ではイスラム原理主義者)


更に、アメリカ政府の全職員の私生活や言動がチェックされ、少しでも怪しいと思うと共産主義者のレッテルが貼られました。1952年だけで、2.2万人の職員の素行が調査され、4千人以上が共産主義者と認定され、解雇されました。これはハリウッドでも行われ、追放された映画関係者が続出しました。所謂、この「赤狩り」に積極的に協力し、仲間を密告したりした中心的存在が、俳優組合のロナルド・レーガン、ロバート・テーラー、ゲーリー・クーパー、ウォルト・ディズニーらでした。


FBIのフーバー長官が、それ以外の一般アメリカ国民をも対象にした思想調査を大々的に実施しました。
1949年、国家安全保障法を成立させ、権限を拡大した国防省とCIAを誕生させました。CIAの機能を規定した設置法には「国家の安全に関わる任務の遂行」という曖昧な定義で、「何でも出来てしまう」機関を大統領の下に作りました。(この為、CIAの権限と活動範囲は世界各国へどんどんと拡大して行き、一人歩きを始めてしまい、後には大統領さえ知らない工作が行われます)


トルーマン政権は、反共産主義がアメリカの国益であり、世界の正義であるとの風潮を国内ばかりか、巨額の経済支援で味方に付けた西側諸国にも作って行きました。必ずしも共産主義思想に汚染されていない国やリーダー達でも、アメリカの意に沿わない者達は全て「共産主義者」のレッテルを貼り、排除しようとし始めました。それはアメリカのCIAによる巧みな工作により、軍事クーデターを仕組まれ、
失脚してしまうのでした。そして親米政権に取って替わられたのでした。グアテマラ、イラン、エジプト等です。それらの親米政権は米国から巨額の経済援助を貰い、殆どが強権的な独裁政権でした。
処が、アメリカから排除されたり、経済制裁を受けてしまうと、生残る為に止む無く、ソ連に接近しなければならない途上国が続出したのでした。
即ち、本来ならば民族主義者として、植民地支配から独立したいだけなのに、親米政権でないとアメリカが排除し経済制裁をするので止む無く、本当にソ連の支援を受けざるを得なくなってしまったのです。その代表例がベトナムのホーチーミン、キューバのカストロ、イランのモサデグ、インドのネルー等、多くの途上国とそのリーダー達です。
ベトナムのホーチーミンが民族独立を目指して抗日運動をしている時には、日本を叩く為に、米国は彼を支援していました。
然し、日本が米国に敗れるとホーチーミンを助けなくなりました。ホーの戦い相手が日本からフランスに変わったからでした。
フランスの戦費の80%を米国が負担していたのです。止む無く、ホーは中国やソ連に助けを求めざるを得なくなり、共産主義の色を強めなければなりませんでした。


軍事と金融を握れば十分な筈なのに、更に追い打ちを掛けるように、「核兵器」をソ連への脅しに使ったのでした。
終戦時点での中東の石油権益ではイギリスが72%、アメリカが10%を握っていました。アメリカの石油権益を拡大する為に最初に動いたのがイランでした。
イランの石油地帯はソ連との北方国境でカスピ海に近い場所にあります。それを狙って、ナチスがイランの石油を奪わないように戦争中からソ連軍がイラン領域に駐留していました。戦後、イギリスが握っていた石油利権を奪おうとしたのは、米国だけでなくソ連も同様でした。この為、ナチス崩壊後もソ連はイランの油田地帯での駐留を続けていました。
アメリカはソ連に対して「撤退しなければ、原爆を落とす」と戦争覚悟で脅しました。ソ連は未だ核兵器の開発が完成しておらず、渋々撤退しました。イランからの屈辱的撤退を余儀なくされたのを機に、ソ連も核兵器の必要性を痛感し、核兵器開発が加速されたのでした。
そして1949年9月、ソ連が原爆爆破実験に成功します。核開発競争の始まりでした。
(その後、アメリカが核兵器の使用を実際に準備して脅したのが、北朝鮮・ベトナム・スエズ運河動乱、そして台湾海峡。
台湾海峡紛争に備えて、アメリカは沖縄に核兵器を配備していました。標的はソ連ではなく、中国共産党でした。)


第二次大戦直後、イランの石油はイギリス系石油会社が所有し、石油から生じる富は全てイギリスの懐に入っていました。
石油収入はイラン人の為にあるべきだと、石油の国有化を唱えたモサテグ氏が国民の圧倒的支持を選挙で得て、首相に当選しました。
モサテグ氏はソルボンヌ大学で学び、スイスで法学博士号を取った西欧流の考えを持った初めてのイラン人で、開明的で近代的な思考をする人でした。処が、アメリカとイギリスがモサッテグ首相は共産主義者ではないことを熟知し乍ら、共産主義者のレッテルを貼り、CIAに画策させて、モサッテグ首相一派を追い落とすクーデターを起こしました。
そしてパーレビ皇帝(シャー)を傀儡政権にして、近代化の下、イスラム教勢力を弾圧・追放しました。全てはソ連と国境を共にするイランの石油地帯を米系石油メジャー5社がイギリスに代わって手中に収める為でした。そして25年間、大量の資金援助を行い、アメリカとの軍事同盟をも強化しました。
然し、急激なイスラム教勢力排除とイランの秘密警察SAVAKの抑圧に耐えられなくなった国民の反発を受け、1978年パーレビーを国外追放しイラン革命が起きました。そしてアメリカ大使館人質事件が起こります。(ご存知の通り、これが現在でもアメリカとイランが喧嘩状態にある原因です。)


ソ連の包囲網はトルーマンから始まり、アイゼンハワーで一層強化されました。
英仏独を中心に約100億㌦の巨額の経済援助を行い(9割近くが返済不要な無償援助で欧州復興計画・マーシャルプランと呼ばれた)それらのカネと引き換えに、ソ連共産圏を包囲するように米軍基地を欧州各地に多数配備する承認を各国(特にイギリスが多かった)から取り付け、それがNATO(北大西洋条約機構)へと発展して行きました。
1953年アイゼンハワーは、大統領に就任すると直ぐに、かつてのヒットラーの盟友っだったスペインのフランコ総統を訪問し、約10億ドルの融資をしました。その見返りに、スペインを反ソ連・反共産主義の砦とし、スペインと米国の共同基地を建設し、NATOにも加盟しました。
(K注;それ迄、スペインはファシズムの独裁政権として国連から経済・外交制裁を受けていて、自由な貿易も投資も出来ていませんでした。米国が承認する事で対外的に門戸解放がなされ、経済は急回復しました。米ソ冷戦が激しくなるにつれ、スペインの地理的な環境(地中海の西の出口、ヨーロッパとアフリカを結ぶ戦略地域)の方が、非民主的な軍事独裁よりも米国には重要になったのでした。
然し、それはフランコ独裁体制が益々強化される結果となりました。経済は回復してもスペインでの民主主義と近代化が遅れ、「ピレネーの向こうはヨーロッパではない」と揶揄されるスペインの後進性が残ってしまいました)米国は実質的に独裁政権でも親米政権であれば、独裁を批判しないのです。


1957年ソ連が人工衛星スプートニック1号と2号を相次いで打ち上げに成功し、衛星がアメリカの上空を飛びました。
米国民のソ連への恐怖が募りました。フルシチョフはアイゼンハワーに「冷戦の終結と平和的な宇宙競争」を提案しましたが、アイゼンハワーは断りました。米国の軍事力の方が勝っていると判断したからでした。核開発競争を終えるタイミングを失いました。これにより、両国の核兵器は急増して行きました。
アイゼンハワーが大統領に就任した当時の核兵器は1千余でしたが、退任時には2万2千を越えました。然かも、アイゼンハワーは大統領と連絡が取らなくなった場合、部下に核爆弾発射の権限を委譲していたのでした。その部下が更に次の部下に権限を委任して、核兵器のボタンを多くの人が押せる状態になっていました。1960年、もし戦争になれば、24時間以内にソ連と中国に核攻撃を行う計画を承認しました。


1950年から60年代前半迄は、アメリカが最も繁栄し、平和を享受した時代で、アイゼンハワーは国民から慕われた大統領でした。
然し、彼の時代に核武装が最も進みました。流石のアイゼンハワーも行き過ぎと思ったのか、大統領退任演説では軍需産業が巨大になり過ぎてアメリカ社会の隅々にまで影響を及ぼしていると、その危険性を自ら指摘しました。軍産複合体が不当な影響力を持ち、民主主義を危うくすると言い残して、大統領のポストを去って行きました。


理想を求めて欧州大陸から渡って来た移民国家であるアメリカが、何故、「外国人が襲って来る」という恐怖を持つのかストーンも疑問に持ちます。現在、米国の家庭が保有している銃は3億丁に上ります。各人が武装を強化すればする程、見えない恐怖が増すと云う悪循環に陥っているとストーンは断言します。


アメリカは圧倒的な経済力と軍事力で、自由と民主主義を標榜する世界の警察官を勤めると云う新しい考えを世界に普及させました。
警察官の役目は自国の社会システムに敵対する者を見つけ出し、逮捕しなければならない。この方針がこの時期に確立され現在に至っているとストーンは言います。


蛇足乍ら、私は反米主義者ではありません。映画・ミュージカル・スポーツなどでは、アメリカ文化の愛好者です。経済でも米国抜きには日本の繁栄があり得ないのも十二分に認識しています。然し、そのアメリカにも、光と陰があるので、光だけではなく、陰の部分も知っておけば何が何でもアメリカに追随する日本政府の姿勢も冷静に見られるのではないかと思い、ご紹介している次第です。