ミルタ・イバラ、故アレア監督のメッセンジャー | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

きょうはトマス・グティエレス・アレア監督の未亡人で女優のミルタ・イバラが、

監督亡き後、書簡集”Titón, volver sobre mis pasos” をまとめ、ドキュメンタリー”Titón de La Habana a Guantanamera” を撮った経緯や、監督と暮らした家を見せてくれる映像を紹介します。
ただし、これから『苺とチョコレート』を観る予定の方、ラストシーンが出てきてしまうのでご注意!
尚、ミルタ夫人はこのドキュメンタリーをNYで開催された「ハバナ・フィルム・フェスティバル」とシカゴの「ラテンアメリカ映画祭」に出品。後者では観客賞を獲得しました。
              MARYSOL のキューバ映画修行-Titon ドキュメンタリー
下記のサイトからどうぞ!
http://www.cubaencuentro.com/es/multimedia/videos/mirta-ibarra-habla-sobre-el-documental-titon-de-la-habana-a-guantanamera


上記の映像でミルタ夫人が話している内容:
「ティトン(アレア監督の愛称)が残した手紙を整理していて、それらを世に出すことが大事だと感じたの。出版までにずいぶん時間がかかったわ。そして書簡集を出したあと、ドキュメンタリーを作る必要があると思ったの。手紙ではなく、

ティトンが自らの声で、作品の動機や映画の意味について語るドキュメンタリーが。素材を集めるためにICAICやテレビ局を当たったわ」
ドライブシーンのあと―
「ハバナは彼が生まれ、愛した街。グァンタナメラは彼の遺作。だから彼の作品を通して、彼の生涯をたどったの」
自宅シーン―
「ここが私たちが23年間共に暮らした家」
監督の書斎
「ここで一日中仕事をしていた。彼はあらゆる芸術を愛していたわ」
アレア監督
「初めて8ミリカメラを手にしたとき、天職だと感じた」
ホルヘ・ペルゴリア
「『苺とチョコレート』のラストシーンを撮るとき、僕は若さと自分の舞台経験から、押さえていた思いの丈や胸の痛みをあそこで一気に吐き出そうと考えていた。ところがティトンの指示は「いや、君は(よく聞き取れないけど、ペルゴリアのアイディアと全く違う)」。「2回説得されたんだ。結果的に(完成した)シーンを見ながら思ったよ。素晴らしい演出だ。ティトンの言う通りだって」
再びミルタ夫人の登場―
「……『低開発の記憶』のほか『苺とチョコレート』などが知られているけど、他にも作品はあるわ。『天国の晩餐(Los sobrevivientes)』、『キューバ人と悪魔との闘い(Una pelea cubana contra los demonios)』『最後の晩餐(La última cena)』…まだ本当に知られていない作品が」
「私は監督よりもやはり女優としてこれからもやっていくわ」


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ところで、紹介した映像とその中身は、ウェブ誌“Cubaencuentro”の読者に向けて撮られたもので、インタビュー記事も併せて掲載されています。
個人的には、特筆すべき内容は少ないのですが、いくつか自分用と皆様向けに抜書きしておくと―
ティトンはブラック・ユーモアに富んでいて、週刊誌『Pitirre』の風刺画家だった。
▽癌に侵され病床に伏している監督をカルロス・バレーラ(歌手)が見舞っている。
マイアミには、ティトンの娘のナタリアに会いに行く。彼女はティトンの長女で、マリエル事件の折にマイアミに来た。
ここから以後は彼女の語り風に:
「ティトンとの出会いは、あるパーティー。当時私には夫がいたけれど、一人でパーティーに行き、そこで彼を紹介されたの。そのパーティーで飲み物を探しにキッチンに入ったときのことよ。誰かに腕をつかまれ、危うくキスされそうになったの。それがティトンだったってわけ。私はビックリして家に逃げ帰り、夫に「とんでもないヤツがいた」と報告したわ。二日後、彼が家に謝りに来たの。一緒に暮らし始めたのは1973年からよ。」


「スペインにマンションを買って住んでいたけど、最初から一時的なつもりだった。そのせいで落ち着かなくて、結局キューバに戻ったの。ハバナに帰って、自分の思い出や海に囲まれていると、深呼吸できるわ。ティトンと暮らしていた頃は、よく朝早くからシュノーケルを付けて海にもぐったのよ。早起きの魚を見るために。どんなに問題があって、生活が大変でも私はキューバにいるわ」


(最近の若者はデジタルカメラとコンピューターで、ICAICよりも創意工夫に富み、批判的の旺盛な映画を撮っているが…という問いに対し)
「私もエドゥアルド・デル・リャノ監督の『ホモ・サピエンス』に出たのよ。インディペンデント映画だから、国からの補助は一切ない。だから私たちへの報酬もないけれど、出演することが彼らを支えることになっているわ」


(今後の映画の予定に関し) 「ラテンアメリカ諸国から幾つかオファーがあるけれど、この経済危機のせいで、延期になっているの。それで今は『Neurótica anónima(直訳:無名のノイローゼ患者)』という一人芝居を書いているところ。私と関係があるかって?私は“無名”じゃなく“有名”なノイローゼ(神経過敏症)よ」


MARYSOL のキューバ映画修行-ミルタ・イバラ(2006年) Marysolから一言

←2006年の映画祭でミルタ夫人を見かけ、話しかけたときの写真。

日本でも『低開発の記憶』が上映されることになりました、と報告したら嬉しそうに「ああ、日本に行きたいわ。ティトンもとても行きたがっていたのよ」とおっしゃってました。

そのあとそばを通りがかった人に「ティトンの作品の保存が心配。なんとかしなくては」と言っていたのが忘れられません。彼女が書簡集を編んだり、ドキュメンタリーを作るのは、監督の作品を守るためなのでしょう。