『PM』上映禁止事件 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

前回は1961年のほぼ前半まで、4月に起きた「プラヤ・ヒロン(ピッグス湾)侵攻事件」とそのドキュメンタリーフィルム『侵略者に死を!』 を紹介しました。
『侵略者に死を!』は極めて正統なドキュメンタリーでしたね。
CIAに支援された反革命侵攻軍の卑劣なテロ行為。一方、革命が達成した「真の独立」を守るべく命をかけて戦うキューバ兵たち。「正義」のために一丸となって戦うキューバ人の士気の高さと精神力が、質量ともに圧倒的な“ヤンキー帝国主義”を負かしたことを映画は示唆していました。


こうして国中が奇跡のような勝利に沸く一方で、政府の上層部は「侵略がこれで止む」とは決して考えておらず「次は勝てるか?」という懸念を抱えていました。
また民衆の中にも、遂に明言された「社会主義」に戸惑いを覚える人も少なくなかったはず。そんな喜びと不安が交錯する5月、ICAICが『PM』という短編ドキュメンタリーを上映禁止にする事件が起きます。


この事件のあらましについて、当時キューバに滞在していたフランス女性、アニア・フランコ嬢(22歳)の記録があります。以下は『キューバの祭り』(筑摩書房)より抜粋・再構成して転載。( )はMarysolの口出し


映画局(=ICAIC)では雲行きが険悪だ。若い演出家たちは、すべてが若い局長(アルフレド・ゲバラ)の手中に集中されているのでは民主主義は存在しないと考えだしている。
映画局ははっきり二分されてしまっている。戯れに<スターリン主義者>と呼ばれている、局長と官僚機構とのまわりに集まった連中がいる。そしてこの連中はもっぱらその<積極性>、<消極性>、<主観主義>によってのみ映画を評価する。
(両者とも)あまりにも甘やかされており、このような革命の渦中でカメラを持っているという自分らの幸運がわかっていない。この状況が永久化し、活動が麻痺されようとしているときに、<PM>事件が起こった。


<ルネス・デ・レボルシオン>に属する二人の青年が、過去の遺物が残るハバナの唯一の町(マリアナオ地区?)で16ミリの小編映画を撮った。港とそこの娼婦たち、マリファナの喫煙者、同性愛の男たち、すべての港の暗黒街に巣食ういつもながらの動物群だ。
国をあげて武装して侵攻に備えていた1961年1月の総動員の日に秘密裏に撮影したこの映画は、その夜の12時過ぎに何が行われていたかを見せようとする意図によるものだという。
かなり軽率なことに、この作者たちは或るテレビ番組の編成を任されていた。そこで彼らは土曜日の夜その映画を放送したのだ。
映画局では最初茫然自失してしまった。それから革命法によって与えられている権限を適用してその映画を没収するという決定が下された。反革命の武器として利用されかねない映画を野放しにしておくことは不可能だ。
フィルムを没収する際、映画局はもしかすると少々乱暴だったかもしれないが、その反応は正常で健全だった。
しかし<ルネス>の連中はそのようには受け取っていない。彼らにとってはそれは政治的スキャンダルであり、<文化統制>であり、<映画局のスターリン主義的独裁>の証拠がまた一つ増えたというわけなのだ。
映画局は紳士的に、共同で決定を下せるように、カサ・デ・ラス・アメリカスで知識人や芸術家を呼んでその映画を上映しようと提案した。 (続く)


Marysolより
夜になるまえに 問題の『PM』という約15分の短編ドキュメンタリーは、DVD『夜になる前に』 の特典映像として収められているので誰でも見ることができます。
製作者はサバ・カブレラ・インファンテ(ギジェルモ・カブレラ・インファンテの弟で画家)とオルランド・ヒメネス・レアル(当時19歳)で、二人とも<ルネス・デ・レボルシオン>に属していました。


映画の中身はどこをどう観ても“問題がある”ようには思えません。
フリーシネマとかシネマ・ヴェリテと呼ばれる、当時ネストール・アルメンドロスが試みていたタイプの作品で、夜のハバナ(港町)を背景に、バールにたむろし、飲んだり踊ったりしている男に女、あるいはクラブで演奏するミュージシャンやダンス客の姿がアンニュイに映っているだけ。
ま、それがちっとも「革命家」らしくないから「反革命的」と見なされるらしいのですが・・・ 確かに『侵略者に死を!』とは対照的です。


上のアニア・フランコの記述を読めばそれなりに「事情は分かる」ものの、彼女はICAICの側で仕事をしていた短期(一年間)の滞在者という立場。

当然ルネスよりもICAIC側の意見が多く耳に入っていたはずです。


実はこの作品に「問題」を見つけようとすること自体、無駄な努力みたい。

というのも、本当の原因は別のところ、ICAICとルネスの権力争いだったり、政治的な背景にあるようなのです。映画『PM』は単なる口実、いや犠牲者なのかもしれません―
けれどこの事件が発端となって、「ルネス」の廃刊や革命政権の文化的指針となる「知識人への言葉」(フィデルの演説)に至るので、しばらく事件の経過を追ってみることにします。