ドキュメンタリー裏話(罠1) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

前回 紹介したB氏の映画評のなかには、今後ブログで書いていきたいテーマがいくつかありますが、今回は『低開発の記憶―メモリアス―』のなかのドキュメンタリー映像について、二人の関係者が語る裏話を紹介しつつ、この映画に仕組まれた罠についても(とりあえず一つ)披露しましょう。


①まず、『ピッグス湾侵攻事件』のドキュメンタリー部分に関するエドムンド・デスノエス(小説『低開発の記憶』の原作者であり、映画の脚本家)の発言から。
質問:ピッグス湾侵攻事件を裁く場面のナレーションで、アルゼンチン出身のLeo Rozitchnerの著書「ブルジョアのモラルと革命(Moral burguesa y revolución)」を断片的に使用した理由は?
Edmundo Desnoes デスノエス:それはアレア監督のアイディアだ。あの場面なしでは、革命的要素が希薄になる。検閲を通るために必要だったのだ。また、政治的なこだわりや階級の概念を示すこと、語りが話者の視点だけに限られないためにも必要だった。要するに、曖昧さを軽減するためだったのだ。(La Habana Elegante, Summer2005より)


Nelson Rodriguez ②編集を担当したネルソン・ロドリゲスの発言
ティトン(アレア監督の愛称)は『低開発の記憶』をフィクションでありながら、(ICAICのアーカイブにある)フィルムを多用する特別の映画だと考えていた。
(アーカイブには)通りに人がいる映像がたくさんあった。ティトンは「目の前の現実に問いかけをするセルヒオのモノローグをよく検討して、それが何に由来しているか考えるよう」私に言った。
私は(編集を)すべて直観で行っていたのだが、ティトンは私の仕事を分析した後「どうしてこのような順序に配置したのか?」「それはどういう意味があるのか」などと質問をぶつけてきた。それで私も初めて自問自答した。直観でやってしまった仕事を前に「一体なんで俺はこうしたんだ!?」ってね。ティトンは優れた視覚的記憶力の持ち主だった。(「A contraluz」より)


さて、ここでネルソン・ロドリゲスが語っているシーンは、映画の比較的最初の方、妻との口論の録音を聞いたあと、セルヒオが“荒廃した”ハバナの通りを彷徨するシーンを指しています。
では彼の声を再生してみましょう。


エンカント(百貨店)が焼失して以来、ハバナは田舎町同然
昔はカリブのパリと呼ばれたものを…
旅行者や娼婦はそう呼んでいた
だが今は?
カリブの“僻地”
店や商品が消えただけじゃない
人も変わった
彼らの人生の意味は?
私の人生はどうだ?
意味があるのか?
私と彼らは違う


…とセルヒオ(主人公)は思っているのですが、それは彼の“主観的現実”。
観客である私たちがスクリーンに見る“客観的現実”はどうでしょう?
なんだかセルヒオだって憂鬱そうで冴えない表情をしていませんか?
「私は彼らと違う」とセルヒオは思っているけど、「あまり違わない…」というのが私たち観客の受ける印象(客観的現実)―

だからこそ映画を観ていて「納得がいかない」というか、曖昧な印象が残る…
でも、これぞアレア監督が私たち観客にしかけた罠

Titon
「セルヒオが“客観的現実”と思い込んでいるのは、実は彼の目に映っている現実、彼が選択している現実で、厳密な意味の“客観的現実”ではない」

「セルヒオは批評すると同時に、批評される存在」
「真実はどちらの側にもない。むしろ両者のぶつかり合いの中にあるのだ」
(アレア監督の発言:Mermories of Memoriesより)


アレア監督の発言はまだ終わっていませんが、この続きはまたいつか―
(他にも同じような罠がいくつか仕掛けられていますから、見つけて下さい)