ベネズエラ発ストリートチルドレンの映画 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

次に紹介したいと思っているキューバ映画『NADA』(2002年)の準備がなかなか進まないので、その前に昨年のハバナ映画祭で人気を博したベネズエラ映画『Maroa』をこの機会に紹介することにします。

       Maroa  
『Maroa』 2005年/ベネズエラ・スペイン合作/102分
マロア(Maroa)は11歳の女の子。

ベネズエラの首都カラカスのスラムで祖母(といっても“枯れてない”)と暮らしている。

この祖母というのが、ガルシア・マルケスの『エレンディラ』の祖母みたいで、孫娘に売春を強要しないまでも、街中で詐欺まがいの商売に加担させたり、家では暴力を振るったり。
街でも家でも邪魔者扱いの子どもたちは、ストリートチルドレンとなり、悪事を働きつつも互いに支え合い、都会の隅っこで吹き溜まりのようにサバイバルしている。
あるとき、マロアは街で起きた騒動に巻き込まれ、警察に捕まり、更正施設に入れられてしまう。

けれど、もともと美しい音楽に心を魅かれていたマロアは、そこで楽器(クラリネット)と出会う。音楽と良き(憧れの)教師(演じるのは、スペインの人気俳優Tristan Ulloa)との出会いによって、彼女の人生は、紆余曲折を経ながらも、少しずつ変わっていく…


Marysolの鑑賞メモ
ラテンアメリカの映画を追い続けて観ていると、ストリートチルドレンを描いた映画はさほど珍しくありません。そして私の知る限り、その種の映画はすべて「暴力的」(それなりの美学がある作品もありますが)でした。
けれども『Maroa』は違います。
ストリートチルドレンの苛酷な現実をスクリーンに反映させることよりも、マロアを通して彼らの痛めつけられた心の底に宿っている、無垢で貴い“成長の芽”、“人間性”を写し撮ることに意が注がれているからです。
オランダ系ベネズエラ人の監督Solveig Hoogesteijnさんの、女性ならではの感性・視点のなせる業かもしれません。


そこで「映画化の動機」について話す彼女の声に耳を傾けてみましょう。
“子ども達で編成されたオーケストラ”というアイディアが浮かんだのは、未成年者の保護施設にいる子どもたちが演奏するコンサートを聴きに行ったときでした。

演奏していた子どもたちは皆、犯罪を犯したり、虐待を受けた経験の持ち主。いわば、非常に貧しい階層の出身です。

その彼らが、偉大なクラシック音楽の作品を、いかに感情豊かに、情熱を込めて演奏していたことか!

私はその光景を前に、不思議な気持ちになりました。
カラカスのスラムの子どもが、偉大な音楽家の作品にこんなに夢中になるなんて、いったいこれはどういうことだろう?

ここには、きっと何か映画のテーマになるものがある、私はそう思ったのです。


そういえば、女の子のストリートチルドレンが主人公というのも従来と違う設定。
という、“壊れもの注意”を扱うには、男の子より女の子を主人公にするほうが適しているのかもしれません。男の子の腕をつかむ時と、女の子の腕をつかむ時では、力の加減もおのずと違ってきますものね…


一方で、主人公が“おませ”な少女であることは、この映画にコミカルでセクシーなラテン的スパイスを加えています。“女を捨てない”祖母にも驚いたけど、11歳にして男を誘惑すべくアノ手コノ手を使う少女の早熟ぶりにも降参!です。
ラテンアメリカは、生存競争も恋のかけひきも半端じゃありません。


とはいえ、この映画の通低音になっているのは、胸に深く沁みこむクラリネット音色
カラフルでめまぐるしい画面展開を、地味に支える管楽器の音は、監督がスラムの子どもたちの姿を目にして直観した、人間に対する深い信頼感のように響きます。
幸いにもこの映画のおかげで、私の心の底ではいまだにあの余韻が消えずに残っています。

ある楽器の音が、こんなに印象に残る映画というのも私にとっては初めての映画体験かもしれません。