『いやしがたい記憶』 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

久しぶりにマリオ先生の登場です。

映画『いやしがたい記憶』は、シンボリックな表現に富んだ複雑な作品なので、見ていない方にはピンとこないでしょうが、いつかきっと誰かの役に立つと思うので、紹介しています。


『いやしがたい記憶』  ハバナ大学教授 マリオ・ピエドラ


1968年にトマス・グティエレス・アレア監督の映画『いやしがたい記憶』が公開されたとき、観客と批評家の反応は大きく異なった。
だが、風変わりで挑発的な語り口の、非凡な映画と受けとめる点では大方の意見が一致していた。とりわけ、ドキュメンタリーとフィクションの融合や、挑戦的な映像、監督自身がスクリーンのなかで自作について語っているところなどが注目された。
一方、論議をかもしたのは、主人公がネガティブな存在だったことだ。彼は自分を取り巻く社会的現実をあれこれと批判する。しかも映画は彼の視点(一人称)で語られるため、キューバの事情、すなわち革命について極めて批判的な“眼差し”を投げかける。


この論争は、主人公と映画に対する否定的な評価へと至ったのだが、60年代末という時期にあっては、それは尤もなことだった。なぜなら、当時はまだ革命のプロセスと社会の間に強い結束があったので、主人公の“セルヒオ”の姿は卑怯者、裏切り者と映ったからだ。
実際にはセルヒオは“反革命的”ではなかったし、革命に反対するようなことは何もしなかった。しかし彼は“革命家”でもなかった。革命のためになるようなことも何もしなかったからだ。
“セルヒオとは何者か?”論争の中心にあったのは、この問いだったように思われる。
そして大方の意見は、単純にセルヒオを卑怯者と見なしていたと思う。


こうしてセルヒオは当時よく使われた表現の一つ、“プチ・ブルでインテリの卑怯者”というレッテルを貼られた。だがセルヒオをインテリ(知識人)と呼ぶのは、やや理屈に合わない。実体は違うからだ。確かに彼は文化的なことに興味をもち、執筆活動をしようとはした。しかし実際には仕事のない経営者でしかなかった。セルヒオは知識人になりたかったし、絶えずそう言う。だが彼の行動を見れば、なれなかったのは明らかだ。怠惰とむら気が災いしたのだ。
今思えば、彼につけられたレッテルは、あの時代によくあった“常套句”の産物だったかもしれない。当時、インテリ層は大体において“革命的に信用できない人物”だった。彼らは性格、もしくは人格形成に欠陥があり、“イデオロギー的にもろい”疑わしい人物と思われていたのだ。


しかし、いずれにせよ、レッテルが必要だった。セルヒオを反革命派かそうでないか、などと簡単に位置づけることができなくても、時代の状況は政治的立場の明確化を強く要求していたからだ。映画を客観的に眺めれば、セルヒオは周縁に居続けようとしただけで、どちらか一方の側で闘わなかったことが判る。また、彼の考えていたことも少しは判る。映画は終始セルヒオの声で彼の考えを語っているのだから。
だが、当時はセルヒオであろうと誰であろうと、明確に立場を表明しなければならなかったのだ。何年も後、セルヒオの現実に対する批判的で疑問だらけの眼差しが、当のキューバ人の間でも珍しくなくなったときとは事情が違うのだ。


映画史を通じてラテンアメリカの最高傑作と評価されている『いやしがたい記憶』は、私たちに考えることを迫ってくる。キューバ人作家、エドムンド・デスノエスの同名の小説を下敷きにしているとは言え、映画は小説を大幅に凌駕している。微妙なニュアンス、多様な読み、はるかに広角で深い眼差しを提供しているからだ。これこそがこの映画の魅力であり、謎である。そして37年を経た今、私たちの目に“新しい”映画と映る所以だ。いつでもそこに戻ることが出来、そのたびに新たな思考と分析の手がかりが見つけられる作品なのだ。


*映画『いやしがたい記憶』に関する記事は、ブログテーマ「メモリアス」に分類されています。