農家といえば肉体労働。
昔はもっと多くの家が少なからず肉体労働をしていたに違いない。
肉体労働という言い方は違って、体を張った真の労働というところだろうか。
生きていくための労働であるが、人工的でなく何か自然な感じの労働だ。
家族のために働く、家族一弾となって生きる昭和の時代。
我々のような知識労働者では通用しないのが体を張った労働であろうか。
休日に少し野良仕事をするだけで腰が痛くなる私には不可能なことだ。
働き方の変遷が、働く意識から人を遠ざけてしまったのかもしれない。
机の前に座って何かを書いているような労働が、果たして真の労働といえるだろうか。
我々は益々仮想世界の住民として、働く意識をどこかへ置き去りにしていく。
真の働く意識は人を支えることにあり、何かを売りつけるようなことにはない。
知識労働者が働くことを収益の対象に置き換えてしまったのかもしれない。
我々のような使い物にならない者が、働く意識を収益の対象に変えてしまったのだろう。
考え方を偏重すれば、使い物にならない者が益々増えていく。
考えに足らないような考え方を固持しようとするから、益々使い物にならない者となる。
そういう生き方なのかな。