現実

現実は半分見て半分見ないようにするのがよい。

全く見なければ現実からかけ離れ、見過ぎると現実に押し潰される。

現実とは違って与えられる環境によって左右されないのは、損得を離れた生きる意志だ。

生きる意志は、生きる上で一番大切にすることは何かによって決められる。

その大切なことを中心に見て、現実を半分見るような気持ちにあれば、絶望感は薄れる。

生きる意志は生かされていることを忘れない意志である。

現実にはない大きな感情である。

仏によって支えられると思う感情である。

この生きる意志によって、見ない現実の半分から見えてくるものが違ってくる。

見なくてよい現実は自然となくなるものだ。

ガーン笑い泣きアセアセ
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情けなさ

人にできることは限られており、できないことに納得することしかできないのか。

そのことは能力や素質では測ることができない特別な感情であり、満たされることのない渇望である。

人の行く先を思案した不安でもある。

生きている間、多くの人に助けられ、支えられるわけであるが、そのことに目がいかないことが多い。

何もやってあげられないこと、やれることを見つけられないことに、愕然とする。

自分さえ良ければ良いという身軽さから脱することもできない。

様々なことを苦しみとでもいえる情けなさに感じる。

遥か昔から、人の精神が行き着く果てには情けなさがあるように思える。

堂々巡りすることは人が生きることの根本にあるようである。

なくなることのない苦しみは堂々巡りする。

何度も生まれ変わるという輪廻転生は、不可思議な話というだけのものでもないようだ。

ショボーンショボーンショボーンもぐもぐ照れ照れ照れ
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紅葉2

テーマ:
続いて高野山へ車

初めて宿坊に泊まった

辺りは真っ暗で静寂に包まれたままだ星空流れ星

午前中だけなんとか雨が降らずに助かった

僅かな晴れ間も見えてくもり晴れ

吉野も高野山も紅葉が美しいもみじ

晴れていればもっと美しかっただろうが・・・。

ライトアップされた根本大塔




金剛三昧院






鳥の池


霊園付近

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紅葉1

テーマ:
紅葉を見に吉野山へもみじ

普段の心掛けが悪いのか、あいにくの雨雨

しかし、わざわざ休みを取ったから、雨でも強行するしかないガーン

やっぱり初心者には登りの歩きはきつい滝汗

モデルコースは下りを歩くように書いてあったドンッ

汗だくになりながらも、下千本から奥千本まで歩いたあせる


竹林院


如意輪寺


高城山展望台付近




西行庵




金峰神社付近

面倒なこと

面倒だと思えることは少なくない。

何もない今のままがいいと思っていれば、余計にそう感じるのだろう。

しかし、人として生きる現実は面倒なことにしかない。

面倒ではない楽しさは、現実のものなのか、それともファンタジーなのか。

人から面倒なことを取ってしまったら、現実のことのほとんどが消え去り、残るのは空想のみになるか。

僅かな空想を楽しむために、現実はあるというのだろうか。

現実を面倒くさいこととして片づけてしまえば、楽しみとしての空想も消えてしまうのだろう。

生じることも滅することもないと悟り、執着しない生き方は、面倒なことを避けることではなく、面倒なことが生き方そのものであると知ることであるはてなマークはてなマーク!!滝汗

すがりつく

数ヶ月前の生活がまさに夢であった。

人にはそのように思うときがいつかやってくる。

夢であるときには夢であることに気づかない。

眠っている時の夢がそうであるように、起きているときの夢もまたそうである。

失って初めて気づくというのはそういうことだ。

昨日までの生活がそのまま続くことはない。

緩やかに少しずつ変わっていくということが多いだろう。

今が一番幸せである。

そう思える瞬間を連続させていくことが、生きることの一番の実感となる。

過ぎたことを考えることと同じように、先のことを考える。

その先にあることは誰にもわからないから、今を実感することしか確実なことはない。

発展があれば衰退もある。

希望があれば絶望もある。

生があれば死もある。

当たり前のことを当たり前と捉えることができないのが人である。

いつまでも淡い期待にすがりつく。

完全な終わりをみるまでは・・・。ガーン

嬉しさ

どこから来てどこへ帰るのか。

そのことが分かることほど幸せなことはない。

仏教などが追求していることも、そのことの他にはないか。

どこから来てどこへ帰るのかが分からないから、目先のことに一喜一憂している。

しかし目先のことに一喜一憂しない生き方は極めて地味で、居るか居ないか分からないような暗い生き方のようにも見える。

現に、一喜一憂する事に馬鹿馬鹿しさを感じたら、自ら存在を隠す生き方にもなるだろう。

隠居する事の良さは、この馬鹿馬鹿しさを感じるようになったときに分かるようだ。

無論、生産年齢が高くなり、また金銭的な支えもなくなって行く時代だから、馬鹿馬鹿しさを感じていられない人も多くなるのだろう。

人であることの本当の嬉しさ気づかずに生きることは勿体ないことだと思う。

しかしこの嬉しさは一人一人が全く違った形で感じることであるだろうから、形式的に表すことはできない。

ただ、この嬉しさは、どこから来てどこへ帰るのかの気づきと深く関わっている、と思える。

猫しっぽ猫からだ猫あたまクローバー犬しっぽ犬からだ犬あたま

持つこと

自分の「もの」と言えるようなものは何もない。

人間界の所有権というものはあるだろうが、それは人間のルールによって決められたものである。

しかし、実際に何を持っていると言えるだろうか。

自分の命すら持っているものではないのに、他の何を持っていると言えるのだろうか。

持っているという幻想や錯覚を起こしているだけにすぎない。

持っていると思っているものは、いつ消滅してもおかしくない儚いものだ。

持つことに囚われるから、失うことを恐れる。

持つことに囚われるから、そこに在るということを忘れる。

いつしか人も物も持つための対象になって、持つまでに至った機縁のことを忘れてしまう。

知らず知らずのうちに持っていて当然になってしまう。

まずは、命があることが当然のことではないことと同じように、持っていることが当然のことではないと思うしかないだろう。

失うことは辛いことだ。

しかしそれは、持っていて当然だと思っている前提があるからのことであり、この前提が変わればそれほど辛いことでもなくなる。

持つことを忘れて、在ることを意識する。

それが大まかに癒やしといわれることなのかなはてなマークはてなマーク笑い泣き

初心

初心忘れる事なかれ

初心とは究極には生まれたばかりの心に帰ることであり、ゼロである素朴な状態になることをいうのだろう。

どんな事でも、一旦ゼロに戻って、何もない状態を忘れてはいけない。

初心に戻らず、昨日からの積み重ねであると思うから必ず行き詰まる。

どこまでも上り続けようと思うのは間違いであり、一日一日が上り下りの繰り返しにあるのかな。

人は初心に帰れば居るだけで価値ある存在となる。

生まれたばかりの状態は人の価値観を越えた存在である。

そして、終わりも生まれたばかりの状態と同じように人の価値観を越えた存在になることが理想である。

初心を忘れてしまうから、自分にこだわり、価値観がなかったことを忘れ、ゼロである素朴な状態にあったことを忘れる。

その先にあるのはゼロに戻すための破壊であるに違いない。

愚かな存在であることに気づかない。

カエルカエルカエル龍カエルカエルカエルヘビカエルカエルカエル