私の子供の頃、私の父親は子供のことを思うがゆえに、子供に職業などの自由な選択を許さなかった。


私の親の考え方は、特に子供のことに関しては、周りの親戚の考え方とも合わないことがあったようだ。


私の親の考え方は江戸時代の考え方とも言われていたようだ。


周りの親戚には、子供がやりたいと思うことをやらせて、成功しても失敗しても本人の責任とすればよい、との考え方を持つ人も居た。


これは子供に選択の自由を与えるという意味で一見合理的に見える。


私も、若い頃には、親に反発して、やりたいことを探すために転職をしたものだ。


かなり痛い思いをしたが、やってみてよかったとは思っている。


人の悲しさは、たとえ自分の子供であっても、考え方は全く異なっていくことにある。


幼い頃は親の考え方を受け入れるものだが、反抗期以降になるとそうは行かなくなる。


だが、あらゆる選択を子供の自由にするという考え方は、必ずしも子供を自由にはしないように思う。


自由が多すぎても、選択に迷い、結局何も選択できなくなってしまうという結末に陥るおそれがありそうだ。


自由であっても、結局自由であることに怯えて、自らを萎縮してしまう。


この場合の親は、無責任さを伴う自由放任主義とでもいうところか。


ただ、失敗したときに助け舟を出せるのであれば、それほど問題にもならないかもしれないが。



自立とは、働いて自分で生活できることであり、最終的にはそのようにさえ持っていければ、入り口がどう違ってもよいのかもしれない。

一方、あらゆる選択から子供の自由を奪い、親の見識に基づいて選択をさせるという考え方は、子供のことを考えていないようでよく考えているのだろう。


ただし、子供の選択に真っ向から反対すると、完全に分裂してしまう。


よ~く考えた上で、その考え方に子供を従わせるのではなく、その考え方による選択の良さを説明してあげることが得策なのだろう。


誰しも選択の幅をなくされると反感を持つが、選択したときのメリットを聞いて悪く思う者はいないから。


私は、自由はありすぎても良くなく、なくても良くないと思っている。



親の立場としては無責任な自由放任主義にはなりたくないものだ。

一歩間違えば、無干渉、無関心の始まりだからだ。

年々、世代間の会話は減り、年齢を越えた間での会話は少なくなる傾向にあるようだ。

会話が聞くことを主に、話すことを従にある程度コントロールできればいいかもしれないが、そのようにするにはある程度の訓練がいる。

価値観を押し付ける気はなくても、話すことが主である考え方には限界があるだろう。

ちょっと嫌な思いをして会話をするよりも、嫌な思いをしないよう無言でいる方が心地良いには違いない。

親の考えるように子供を誘導することが得策でないのは言うまでもないことだ。

親の存在は有り難いものである。

与えるだけ与えるのが親の役目でもあるからだ。

だが、成長過程のある時点で、子供の意識の方が親を超えるということもあり得る。

親から教わることよりも、自分で気づいていくことの方が遥かに重要なことであったりする。

地球が歴史を重ねるごとに、人が世代を重ねるごとに、意識のレベルは高くなっていくとさえ思える。

子供の意識が親の意識を超えている場合には、親の価値観など子供に何ら影響を与えることもないだろう。

いつの時代でも自由な、柔軟な考え方を持てる者の方が有利な気がする。

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