私の家族が住む家は、私たちだけが住むのではなく、仏様も住む家だ。
大きな家を建て替える計画など、私の親がいなければできなかった話である。
私の親は、子供のために生きた親である。
だが、子供は、そういうありがたさがなかなか分からないものだ。
親が生きているときには、大した感謝の言葉も表せれないのが子供である。
私が子供の時は、うちは周りに比べて、お金の掛かることは何でも我慢してきた方だ。
私は4人兄弟の次男として生まれ、使うものはほとんどがお古であった。
普通の人が普通にやることをできるだけしないようにし、家計が圧迫されないように、どことなく我慢してきたという生活だ。
それでも、私にとっては家は掛け替えのないものであった。
人との比較などしてもしょうがないからである。
私の親は誰よりも若い時に苦労してきた人たちである。
生活のためだけに過ぎていく日々。
毎日、仕事と農業に明け暮れていたことだろう。
子供の頃に連れて行ってもらった旅行など、下手したら1,2回のことである。
どれだけ節約して、今の家を維持してきたか計り知れないほどだ。
普通の人には決して真似ができないほど、両親は苦労してきた。
もちろん私にも無理と思えるような苦労である。
我が身を捨てて、どうしてそこまで子供のために頑張れたのか、普通の眼では決して分からない。
そういう両親の努力があって、今の私がいて、この家がある。
家を建て替えることは、両親、兄弟、祖父母・・・が住んだ過去の産物を壊すことでもある。
この家の次に建てる家であるからこそ、重みのある家を建てたい。
家は、人が入るただの箱であるかもしれない。
しかし、我が家はただの箱ではない。
過去の悲しい歴史も刻まれた家だ。
4人家族が普通に住む家とは違う。
だから、建て替えるときに、普通の家を建てるわけにはいかないのだ。
激動してきたこの家を吉祥に導いて行きたいのだ。
見栄のためではなく、この家が繁栄することを願った家を建てたい。
私たち家族、一族が幸せになれる空間を作ることが必要なのだ。