これから中南米に住もうとされる方々のための心得(後篇) | ラテンなおやじのぐうたらニカラグア生活

これから中南米に住もうとされる方々のための心得(後篇)

 「これから中南米に住もうとされる方々のための心得」(前篇 )に引き続き、後篇です。中南米に長く住んでいろいろな側面を見て、,もっと異なる見方をされる方ももちろんおられると思いますので、これはあくまでリカルドおじさんの個人的意見ですので、そのつもりでお読みください。


(5)僕の物は僕の物、君の物も僕の物

 西洋文化とは極めて所有意識の強い文化で、言語でも「所有格」が発達していることはこれと無関係ではありません。中南米文化もこの西洋文化の一部ですから(辺境で他の要素も混じっていますが)、基本的に例外ではありません。日本人の幼稚園くらいの年齢を子供を初めて中南米の幼稚園に入れると、最初に覚えて来る言葉は、「ノー」と「ミオ」(私のもの)だそうです。自分の領域に入り込んで利益を侵すかもしれない可能性に対しては「ノー」と言えばいい、自分の物を守り所有を主張するためには「ミオ」という言葉を言えばいいと、子供の頃からすぐに体得するわけです。

 しかし、普通なら自分の所有を主張するならば他者の所有も尊重するというのが本来の西欧文化ですが、中南米の場合は、他者の所有の権利を尊重する度合いがかなり低いように思えます。ちょっと極端に言えば、自分の物は自分の物として守り、その上で他者の物も欲しくなるという傾向があります。恐らく、植民地時代に強いものが好き勝手できた時代が長かったこと、貧しい弱者は強者に好き勝手に翻弄されてきた裏返しで、通常では持てない他人の物を見ると欲しくなるという性格が助長されたせいかと思います。権利とは自分のものでもあると同時に、他者のものでもあるという近代市民社会のルールが未発達のまま来たのでしょう。

 このことは中南米人が「公」と「私」を厳しく峻別できないことにつながっています。中南米に来た日本人は、中南米人の公私混同ぶりに驚くはずです。指導的立場の人物が公職に就任すると、人事権の及ぶ下級の公職に家族や一族郎党を採用することなど中南米の何処にも見られる普通の現象です。こうした公私混同や腐敗が中南米の発展を阻害している要因のひとつであることはまず間違いのないところです。

 一般庶民でも、意識は似たようなものです。特に貧しい国であればあるほど、日本人が最も嫌悪感を感じるのは、彼らが盛んに他人の持ち物を欲しいとねだってくることです。また、一旦貸した物が返って来ることはまずありません。これは貧しくてもねだってはいけないという日本人の矜持や借りた物は返すという道徳とは対極にある感覚で、断り方に困るのでこれが嫌で嫌でたまらないという日本人も多いのです。

 このねだりや借用申し込みを追い払うにはどうすればよいのか。中南米に慣れていない間は、確かに断り方に戸惑います。「断れば人間関係が崩れるのではないか」、「嫌われるのではないか」などと日本的に考えてしまいます。しかし、慣れて来れば簡単です。中南米人と同様に所有意識を意図的に強く表現すればよいのです。つまり、幼稚園児のように、「ノー」と答え、「(これは)ミオ」と答えてしまえばいいのです。中南米人は自分がそう言うのと同じように、そう言われることに慣れています。


(6)深く尾を引く恨みと爆発する恨み

 スペイン語に「ajustar la cuenta」(帳尻を合わせる)、「pasar la cuenta」(勘定書きを回す)という表現がありますが、これは人間関係において自分が不当に扱われたり、物的・精神的打撃を被ったりした経験のある人が、その相手に復讐する時の表現です。つまり、「落とし前をつける(つけさせる)」という意味です。

 普通の中南米人は全般的にいって紳士的ですが、何か恨みを残すような人間関係が生じた時、それは簡単に消えてなくならず、表面に現れなくてもその恨みは密かに引きずられ、場合によってはいろいろな形で最後は復讐に出て来る可能性がある点を心得ておいた方が良いでしょう。日本ではこの程度のことで別に恨み云々の話にはならないと思っても、中南米人の相手はそうは感じていない可能性があります。恨みは密かにひきずられていると思った方がいいのです。

 自分を守るためには恨みを買わないのが一番ですが、そのためには特に、相手のメンツを潰すような言動を他者の前でとることは厳禁です。誰だってそんな事をされると嫌ですが、中南米人はこれを最も恨みに思います。

 深く尾を引く恨みがあるかと思えば、一挙に恨みが爆発して暴力沙汰で恨みを晴らす場合あります。これは特に教育の低い庶民階層に顕著な現象ですから、こういう人々との付き合いは特に用心が必要です。

 その関連で、これから中南米に行かれる若い日本人男性に特に注意して欲しいことは、日本の感覚で男女関係をとらえないことです。可愛いセニョリータと知り合いになってお近づきになりたいと思い、また向こうも好意を持ってくれていると確信しても、その女性に(一方的であれ)気持ちを寄せる男性がいるかも知れません。その場合、極めて所有意識の強い国民性ですから、「俺の女にちょっかいを出した」、「俺の女を盗った」という逆恨みを喰らうことがあります。中南米人はかなり嫉妬深いですから、女性を巡る恨みは静かに尾を引くのではなく、時として爆発的になることがあり、刃傷沙汰になる可能性は日本よりかなり高いと覚悟して下さい。日本の感覚でナンパしていると、突然、グサッと刺されますよ。十分ご注意を。

 いずれにせよ、中南米人は日本人以上に恨み深い人々と心得て下さい。


(7)擬制親族のネットワーク

 前篇で中南米の「家族」の概念は日本のそれよりかなり大きく範囲が広いことを述べました。しかし、中南米人の人間のネットワークは単なる血族によるもの以外に、もっと広範な擬制親族というネットワークがあることを知っておいた方が良いと思います。

 今でこそ日本では少なくなりましたが、リカルドおじさんの世代では結婚の際に仲人(なこうど)を立てることが普通でした。両家の取り持ち人ということで、形式的に立てるケースもありますが、場合によっては有力者にお願いして仲人になってもらうこともあります。それはある程度、後々も新郎新婦の後見人になるとの意味合いが、かつての日本にもあったのです。

 中南米にも似たような制度がありますが、それは日本の仲人よりもう少しウェットで濃密な人間関係です。

 例えば、子供が教会で洗礼を受ける際、子供の両親は誰か知り合い、できれば有力者に子供の洗礼の名付け親になってもらう習慣があります。この名付け親を「代父」(「パドリーノ」)、「代母」(「マドリーナ」)と言いますが、代父・代母はその子供の将来にわたって後見役をコミットすることになり、子供は成人してもその代父・代母を父母のように慕う道徳的義務が生じます。また、結婚の際には、新郎側の両親と新婦側の両親は、日本でも一応親戚関係にはなるわけですが、中南米ではその双方の両親の関係を「コンパードレ」と言って、日本以上に密接な疑似家族として意識されます。名付け親とその子供の関係、結婚した子供の親どうしの関係を、それぞれパドリナスゴ(padrinazgo)、コンパドラスゴ(compadrazgo)と言いますが、実際の血族でもないこの関係(擬制親族)が中南米人の人間関係の中で大きな役割を占めていることを知っておかれて損はありません。

 基本的にはカトリックの習慣なのですが、古くはこの習慣を利用して親分・子分関係の構築が行われ、カウディージョ(頭領)と言われる政治ボスが歴史上頻繁に登場する中南米の政治社会風土を創ってきました。

 前篇でも述べたように、制度を信用しない中南米人はこうした人間関係のネットワークを利用して世渡りをすることに長けていますから、特に上流階級と付き合いのある日本人は、誰が誰のパドリーノ、誰と誰がコンパードレといった情報を収集しておけば、いつか役に立つ時があるかも知れません。


(8)「馬子にも衣装」と心得よ

 人間は外見で判断してはいけないとよく言います。しかし、これから中南米に行かれる日本人は、中南米では外見で判断されると心得て下さい。要するに、服装です。別に常に着飾れという意味ではありません。ここぞというタイミングではちゃんとした格好をしろという意味です。

 中南米は残念ながら今も身分社会です。植民地時代からご主人様と下僕の関係が人間関係を規定して来ましたから、中南米人は他者との関係において、相手がどういう社会階級の人間か、自分より階層が上か下かを本能的に計ります。それによって自分の相手に対する身の処し方を変えるのです。上の人間には下手に出、下の人間には横柄に出る、これが基本になっています。その上下の計り方としては、相手の容貌・肌の色、立ち居振る舞い、言葉遣いなど判断の基準はいろいろですが、最も手っ取り早いのは相手の服装を見ることです。中南米に住む日本人はきっと経験していると思いますが、こちらがラフな格好、汚い恰好をしていると、同じような格好をした連中が、気安く、場合によっては横柄で見下げた感じで話しかけてきます。こちらが背広にネクタイでも着用していると、ラフな格好をした中南米人は「セニョール」と言いながら、一応丁寧に接してきます。そこでいろいろな交渉事などで相手に低く見られてはまずいという場合は、ちゃんとした格好で臨むことが肝要です。

 尤も、同じ中南米でも国によって多少の違いはあります。特に、上流階級が植民地時代、あるいは19世紀、20世紀初頭から連綿と続いているような国では、ここぞという時の身なりは気を付けた方がいいでしょう。

 しかし、リカルドおじさんの住むニカラグアでは、そもそも暑い上に、革命で身分社会の権威が建前上崩壊した国ですから、それほど厳格に考える必要はありません。何せ、ニカラグアは大臣もGパンを穿いているような国ですし、ぐうたらに過ごしているリカルドおじさんにとって、ここぞという場面があるはずもないので、年がら年中ノーネクタイの半袖シャツと短パンだけで、背広など着たことありません。


 以上、好き勝手書いてきましたが、個人的意見ですので、リカルドおじさんの勝手な戯言(ざれごと)と思って頂いて結構です。

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