奇妙奇天烈な異文化の中で生き抜くために | ラテンなおやじのぐうたらニカラグア生活

奇妙奇天烈な異文化の中で生き抜くために

 ラテンアメリカに住んでいるといろいろと精神的にイライラすることが多いことは、日本人なら誰しも経験していると思います。「いったい何だよ、この国は!」とか、「どうしようもない連中だな」などと感じるのは日常茶飯事です。ラテンアメリカに長年住んでいるリカルドおじさんでさえ、未だにこのイライラから完全に解放されることはありません。文化の違いだから仕方がないと納得して悟り切るには、まだまだ修行が足りないと言えばそれまでですが、なかなかその境地には達しないものです。人によっては、ノイローゼになったりして精神的にやられてしまう人さえいますから、異文化の中で暮らすということはけっこう深刻な問題なのです。


 そうはいうものの、リカルドおじさんの場合は、イライラしならがも何とか精神的にやられずに暮らして来ることができました。ここまで来れば、あと何年過ごすことになるのか知らないけれど、おかしくならずにやっていける程度の自信はついています。


 そこで今日は、ラテンアメリカ(特に、貧しい国々)に初めて住む日本人、あるいはまだこれから長らく住まなければならない日本人のために、ラテンアメリカ文化の中でどうやって精神的にタフに、とまでは言わないけれど、おかしくならないようにサバイバルするかということについて語ってみたいと思います。


 まず第一に、ある種の覚悟が必要です。「覚悟」といってもそうたいしたものではありません。「異文化の中に住んでいる」という認識です。換言すれば、当たり前のことですが「ここは日本ではない」という認識です。多くの初心者的日本人が、物事が日本と同じように動かないためにイライラして、それで参ってしまうことがありますが、まずは、「私の住んでいる処は日本ではない」、「日本と同じように物事は動かない」という当たり前のことを認識する必要があります。その認識ができないなら、ラテンアメリカに限らず日本以外には住めないでしょう。

 最初に日本人が面くらってイライラするのは、「約束を守らない」、「時間を守らない」といった類のことです。しかし、こんなものは「ここは日本ではない」と思えばそれで済むことです。ある種の慣れは必要なのですが、それよりも何か約束されても「当てにしない、期待しない」ということを自分に言い聞かせれば、初歩的イライラはかなり軽減されます。


 ところが、自分の心の持ちようだけで精神的負担を軽減することが難しい場合があります。自分の持っている日本的価値観、あるいは普遍的な価値観を変えなければならない時もあるのです。それは日本的、あるいは普遍的価値観(道徳観、倫理感)を捨てよという意味ではありませんし、ラテンアメリカ的価値観(道徳観、倫理感)を全面的に受け入れよという意味でもありません。ヘーゲルではないけれど、弁証法的に止揚(アウフヘーベン)しなければならない時があるのです。ひとつの例を挙げましょう。

 日本人がけっこう精神的に参ることのひとつに、自宅で雇っている女中さんが家の物を盗む、くすねるということがあります。特に、家庭の主婦(駐在員の妻)はこれにイライラして、「泥棒と一緒に住んでいるようなもの」と言います。じゃ、雇わなければいいじゃないかとリカルドおじさんなんかは思うのですが、大きな家に住んで小さな子供さんでもいると現実にはそうはいかないでしょう。物を盗まない女中さんを探して雇えばいいじゃないかと思うかもしれませんが、これが至難の業。いい人だと思って信頼していたら、家の物が無くなる現実に直面し、「信頼を裏切られた」と思って、またイライラするわけです。

 かくいうリカルドおじさんも女中さんを雇っています。昼間は家にいないので誰か置いておかないと物騒だという防犯上の理由、掃除・洗濯等の家事を任せる人がいないと困るという理由によるものですが、当初は家のものがなくなりました。尤も、大したものではありません。缶詰ひとつとか肉とかの食料の類でした。そもそもこれまでの経験から、ラテンアメリカ(特に、貧しい国)の女中さんはそういうものという知識がありましたから、最初から信頼はしていません。従って、盗まれて大打撃になるような物は家に置かないようにしています。こまごました気付きにくいものをくすねていくことに気づいたら注意はしましたが、辞めさせることはしませんでした。新たな人を雇って盗みがなくなる保証はないし、採用の手間も面倒なので、いうなれば「泥棒と共存」する道を選んだわけです。でも今は、少なくとも盗むことはなくなりました(気付かないだけかも知れませんが)。恐らく、普通の日本人ならなかなか耐えられないことでしょう。


 「他人の物を盗ってはいけない。」 これは普遍的道徳です。危害を加えて人の物を盗る強盗はもちろん犯罪ですが、日本人にとっては、見えない所でちょっとくすねることも犯罪です。しかし、ラテンアメリカの貧しい層の人々にとっては、見えない所でちょっとくすねるという行為は、必ずしも犯罪とは認識されていないと観念するよりありません。

 見えない処でちょっとくすねる人も、普段はとてもいい人なのです。日本人的には、「盗む人=悪い人」、「盗まない人=いい人、信頼できる人」と考えますが、ラテンアメリカ文化の中では、この等式が必ずしも成り立たないのです。というか、そう考えることが弁証法的アウフヘーベンなのです。ラテンアメリカでは、盗む人でも普段はとてもいい人がいくらでもいますし、盗まない人がいい人とは限りません。


 我々ラテンアメリカに住む日本人は、もちろん日本的価値感や道徳観を捨てることはできないし、その必要もないわけですが、同時に、一歩止まって、我々の価値観や道徳観とは違う世界で生きている人たちもいるということを受け入れ、その双方の価値観や道徳観の折り合いをつけないといけないケースがあると思うのです。でないと、ただラテンアメリカ文化とは奇妙奇天烈な異文化でしかないと思ってしまい、その中で自分の精神がやられてしまいかねないのです。

 それから誤解を恐れずに言うなら、日本人は「信頼」という事を軽く言いすぎるし、重く捉えすぎますね。「人を信頼できないことは悲しいことだ」とよく言いますが、ラテンアメリカでは悲しい事でも何でもありません。普通のことです。自分が(勝手に)「信頼していたのに」と思っても、相手は信頼されているなど思ってはいません。ましてや、信頼を信頼で返してくれるなどと勝手に思い込んではいけないのです。

 それは言いすぎだろうと思うかも知れませんが、こういう考え方をすることが、変な言い方ですがやはり弁証法的アウフヘーベンで、精神的に耐えていくための防衛術なのですな。

 双方の価値観の折り合いをつける事、そこに新しい考え方(気の晴らし方)が生まれてきます。物事にはもちろん限度がありますが、女中さんの例で言うなら、多少の物は無くなってもラテンアメリカでは普通のことだと思うこと、黙って物を持ち去る人が根っからの悪人だとは思わないこと、貧しいのだから食品くらい持ち去ってもきっとその貧しい家族の役には立っているだろうと観念すること、まぁ、いろいろ考え方はあるでしょうが、要するにあまり気にしないことですよ。←ちょっといい加減な結論ですね。

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