お国自慢と国籍意識 | ラテンなおやじのぐうたらニカラグア生活

お国自慢と国籍意識

 2月に入りました。2月1日(日)のマナグアは昨日に続きカンカン照り。特に出かけるあてもなく、自宅にじっとしています。そこで、今日は久しぶりにラテンアメリカ文化ネタです。


 初めてメキシコに住み始めた頃、知りあったメキシコ人からの質問で困ったのは、「メキシコが好きか?」(¿Te gustó México?)と尋ねられることでした。しかも、ある程度親しくなったメキシコ人よりも、ちょっと挨拶的に話をした程度のメキシコ人から尋ねられるのです。恐らく、メキシコ人は相手が日本人だからではなく、外国人一般にこの無邪気な質問をするのでしょう。今もメキシコにお住まいの日本人は、この質問に戸惑うことが多いのではないでしょうか。

 自分が心の底からメキシコを気に入ってるのであれば、「もちろん大好きだよ」と答えれば済むことですが、いろいろメキシコに嫌なことがあっても、こういう時は社交的に、「もちろん大好きだよ」と答えておくのが礼儀というものでしょう。しかし、リカルドおじさんなどは、メキシコは基本的に好きでしたが、やはり暫く住んでいるとメキシコ社会、メキシコ人のいろいろな側面が見えてきて、この質問をされた時に内心ちょっと考え込みながらも、「もちろん大好きだよ」と答えながら、「嫌な質問だな」と思ったものです。

 メキシコの記憶が一番残っていますが、他のラテンアメリカの国に住んだ時にも、同じような質問されたものです。ラテンアメリカ人は外国人にこういうことを尋ねるのが好きなようです。


 翻って考えれば、日本人は日本に住む外国人にはあまり「日本が好きか?」などと質問しません。なぜかというと、上記のように同じ質問を外国でされた日本人が内心戸惑いながらも、社交辞令で「大好きですよ」と答えるような、その内心の戸惑いを与えては気の毒であるし、社交辞令の回答をさせるのも気の毒だと思う、相手に対するある種の配慮からです。

 メキシコ人のこの質問をウザいと思っていた当初、メキシコ人というのは自分の国を外国人がどう思っているのか気になって仕方がないからだろうとか、それを裏返せば自分の国にコンプレックスがあるためだろうなどと推測してみたのですが、必ずしもそうでもないようなのです。むしろ、ある種の単純なお国自慢の意識から来る質問のように思えます。

 メキシコに住んでいる方は必ず聞かれたことがあると思いますが、「メキシコのような国はふたつとない」(コモ・メヒコ・ノー・アイ・ドス、Como México No Hay Dos.)。「メキシコのような素晴らしい国は他にない」とでもいう意味ですが、メキシコ人の質問の裏には、「外国人がメキシコを気に入らないわけはない」というお国自慢の意識があるのです。尤も、メキシコ人でもインテリ層になると、政治や社会の現実をネタに「メキシコのようなひでぇ~国は他にない」という意味で、「コモ・メヒコ・ノー・アイ・ドス」と言っていた人もいましたけれど。


 メキシコ人に限らず一般にラテンアメリカ人はお国自慢が得意です。自分の国が大好きであることを言葉に出して表現します。日本人も普通の人なら内心日本は好きなはずですが、政治がどうの、景気がどうの、世知辛い、狭苦しい、先が見えない等々、こまごましたことが先に思い浮かんで、手放しで日本が大好きであるとか、ましてやそれを言葉に表現してお国自慢をすることはまずありません。

 単純にお国自慢ができるラテンアメリカ人を、リカルドおじさんなどは羨ましいと思うのですが、しかし、本当にこのラテンアメリカ人たちは自分の国が好きなのかと疑問に思わせるような経験もしています。


 メキシコに住んでいた頃、リカルドおじさんはメキシコの大学院に通っていたのですが、そこには他のラテンアメリカ諸国からの留学生もいました。当時、アルゼンチンは反共軍政の時代で、アルゼンチン国内では左翼的と目される青年たちが逮捕される暗黒の時代でした。この時代、多くの左翼的アルゼンチン青年が国外に出て難を逃れていた、つまり亡命していたのです。リカルドおじさんの友人にそのようなアルゼンチン青年がいて、こんな調子で国に戻れなければ、「メキシコ人にでもなるよ」(Me hago mexicano.)と言うのです。リカルドおじさんは驚きました。いかに同じスペイン語の国とはいえ、アルゼンチン人にとってメキシコはやはり外国です。そんな簡単にアルゼンチンを捨ててメキシコ人になれるものかと。尤も、これは後年知った事ですが、アルゼンチンはいかなる理由でも国籍の離脱を認めていないので、アルゼンチン人が他国の国籍をとってもアルゼンチン国籍がなくなるわけではなく二重国籍になるだけなのですが、それにしても国籍を変える決断をけっこう簡単にしてしまうのです。

 ラテンアメリカ諸国の歴史を見ていると、政治的、経済的理由で自分の国を出なければならない状況が多々発生しています。政治的亡命、出稼ぎ移民などがその現象ですが、なかにはそのまま亡命先国、移民先国の国籍を取ってしまう人も多く、日本人の感覚からすれば、あれだけお国自慢の人たちがけっこう簡単に国籍を変えてしまうことに心理的抵抗がないのであろうかと思ったりするのです。


 これが日本人であればそうはいかないでしょう。今の日本は昔と異なり、亡命する必要もないし、出稼ぎ移民になる必要もないけれど、やはり、どこかの外国に理由があって長年住んで、その国が好きで好きで仕方がないとしても、では、日本人を辞めてその国の国籍を取るかというと、かなり抵抗があるはずです。ごく稀には、アメリカかぶれがいて、本当はアメリカ人になりたいけれど自分は無理なので、子供がアメリカ人になれるようにわざわざアメリカまで行って出産したとかいうバカな芸能人もいましたが、普通は日本国籍を捨てようと考える日本人はいないし、いてもそれはもう生活基盤が外国にあるケースがほとんどで、その場合でも、本人にはかなり強い決断であるはずです。お国自慢を外国人にはなかなかしない日本人が、やはり本音のところは日本に誇りを持っている証なのだろうと思います。


 島国で地理的に孤立していた日本人と、同じ言葉とある程度似たような歴史を共有してきたラテンアメリカ人に、国籍に関する意識に違いがあるのは当然です。事情があって国内におれなくなり、やむを得ず外国に逃れることを「亡命」といいますが、この言葉などは、日本人にとって祖国を捨てることの重みをよく表しています。なにせ「命を亡くす」ですから、文化や国民性の違いとは大きなものです。


 因みに、リカルドおじさんも長らくニカラグアに「亡命」中です。


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