高校サッカー決勝のラジオ中継を聴きながら考えたこと | もっとサッカー本を読もう!

高校サッカー決勝のラジオ中継を聴きながら考えたこと

きのう(1月19日土曜日)昼下がり、AMラジオのラジオ日本という放送局で生中継した、第91回全国高校サッカー選手権大会決勝、宮崎代表・鵬翔vs京都代表・京都橘のゲームの実況を聴いていました。

途中、少しウトウトしてしまったのは、ゲーム内容の問題ではなくて(白熱した、緊迫感を最初から最後まで保った拮抗した内容のゲームだと思ったのですが)、実況の問題だと、今、改めて感じました。

要所要所で解説の渡辺一平(チャラ男のイメージが強いのだが、昨日の解説は真面目なだけでなく、きちんとしていて、しかも的を得たもので極めて良い解説だと感じた)が締めていたので、全体的にグダグダになることはなかったが、ふだんサッカーの放送をしていないと、ここまでダメなものなのか、あるいはふだん聞きなれているニッポン放送の実況アナウンサー陣が出色の出来栄えだということなのか。

なにがダメなのかというと、まあ、全部ダメなのですが、強いて言うならば、どっちにボールを蹴ったとか、どちらがどちらに攻めているとか、もう基本的な情報をしゃべらないのです。

だから、今日、得点シーンとPK合戦を映像で確認した時は、いつもなら(良い実況・解説なら)以前このブログで書いたこともありますが、だいたい、ラジオを聴きながら頭の中で思い描いていたシーンと合致するので、なるほどと思いながら映像の確認をするのですが、今回は、まるで初めて見たかのような感じがしました。


だいたい、PKくらい、どっちの方向に蹴ったかくらい、言ってくれてもいいだろ、と思いました。


そして、昨日の実況と今日の映像を振り返りながら、言葉にして伝達するということが、いかに難しいことであるか、考えました。


もし、私が、実況するとしたら、どのくらい常に動くゲームを伝えることができるだろうか。
すべての眼前の情報を伝えるのは無理として、重要な情報を取捨選択してわかりやすく伝えることができるだろうか。

そしてそれは、ラジオ中継のみならず、例えば私がメルマガやブログを書くにあたって、頭の中でもやもやとしたことをどれだけ形あるものにできているだろうか、ということについてもいえると思いました。

さらに、日常生活において、仕事だとか近所づきあいだとか知人友人との他愛無い会話だとか、そういうことについても言えるのかな、とも感じました。




最後は、サッカーとも離れてしまいましたが、誤解の無いように言っておきますが、べつにラジオ日本や実況アナを恨んでこんなことを書いているわけではありません。私自身、もしかしたら常日頃から自分で気づかないうちに、わかりやすい言葉で思いを伝えることができているかどうか、自問自答しているのです。


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(サッカーの現場における言葉の使い方や伝え方について書いてある本についても、もっと読んでみようかな、とも思いました)




<文中敬称略>