昭和20年3月10日 東京大空襲 319 | 郷愁倶楽部

昭和20年3月10日 東京大空襲 319

東京大空襲

昭和20年3月10日未明
1665トンの高性能焼夷弾を満載した325機のB29が
東京下町一帯を襲いました。


罹災者約100万人、死者推定10万人、焼失家屋は27万戸に達し、
下町一帯は焦土と化しました。





3月10日は土曜日でしたが、陸軍記念日のため祝日
日曜日と重なって連休になるため、
学童疎開から帰っていた子供もいたためか、
空襲による死者の中で、
19歳以下の子供たちが38%も占めていたそうです。
その中には、勤労動員で働いていた中学生以上の学生も含まれています。
(3万人の資料からの分析)

3月7日にNHKで放映された「いのちの被災地図 東京大空襲69年の真実」から。


戦災01
戦災焼失区域表示
コンサイス東京35区 区分地図帖


終戦の翌年、昭和21年9月に日本地図株式会社(日地出版株式会社の旧社名)が発行したもの。

掲載の本は、出版社の倉庫にわずか2册残されていた物からの復刻版で、
1985年3月発行です。この地図帖には
東京空襲を記録する会
(12歳のとき東京大空襲で被災した、作家の早乙女勝元さんが結成)
が編集した、炎の夜から焼失地図帖へと題された、解説書が添付されています。



戦災2





第一回目の
東京空襲は真珠湾攻撃からわずか6ヶ月後
昭和17年4月18日にありました。
それは終戦の昭和20年8月15日まで続きました。

日本は木造家屋が多いので
本土が空襲を受けるようになったら負けだ
と、言っていた人がいたそうですが、
現実のものとなりました。



空襲で焼失した東京中心部

中心部

ピンク色の部分が焼失した地域です。公園などの建物がない部分をのぞいて
ほとんどの地域が焼け出されたようです。(区ごとに分かれた地図を合成いたしました)



麹町区・神田区

麹町神田

戦前の住居表示がわかる資料としても使えます。(該当区以外は白地になっています)

当時、防空法という法律があり、
被災した建物の消火が義務づけられていました。
そのため逃げ後れた人も多く、人的被害を増しました。


日本橋区・京橋区

日本橋京橋


明治座

浜町公園に逃げてきた人々は、高射砲の弾薬が残っているからと、
公園に入るのを阻まれ、仕方なく、
比較的頑丈そうな近くの明治座に逃げ込んだそうです。
しかし明治座も全焼、数多くの尊い命が失われました。




浅草区・下谷区

浅草下谷


言問橋

浅草方面の人や向こう岸の向島・本所の人達がお互いに
「川の向こうに行けば助かる」と思い、言問橋に詰めかけました。
橋の上で合流した人達は身動きが取れなくなったところに
火災旋風が容赦なく橋の上にも襲いかかり、
耐えかねた人々が次々と欄干から身を躍らせ、
隅田川や橋の上は一面の死体で埋め尽くされたそうです。




深川区・城東区

深川城東


清澄庭園

清澄庭園は、B29の爆撃からのがれる地元住民の避難所となり
自然林の生い茂る清澄庭園に逃げ込んだ約2万人の人々は
全員助かったそうです。当時、深川で薬局を営んでいた、
叔父夫婦も、その中にいました。




NHKスペシャル
東京が戦場になった日
が、3月15日(土)午後7:30~ から放映されるそうです。









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