鉄と血の世紀 第三章 知恵の限りに | ニューヨークフレンチ ヨネザワ 公式ブログ

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          鉄と血の世紀                
              第三章、知恵の限りに
何でも屋登場

ワシントン会議の結果、主力艦(戦艦)が制限されますと、誰でも考えるのは同じ

事、巡洋艦勢力の拡大がはかられます。一万トン以内、20センチ砲までなら、何隻造ってもよいのですから。

此処に排水量一万トン、20センチ砲多数の巡洋艦が多数建造されるのです。これを条約型巡洋艦と言います。従来の巡洋戦艦や巡洋艦とは違い、格段の戦力アップを図りました。


艦隊の目としての偵察、や哨戒、そして戦闘になれば、その65㎞もの高速を生かし、敵の駆逐艦をその20センチ砲でけちらし、主力艦に対しては、強大な魚雷戦力で、戦いを挑みます。この20センチ砲と言うのは、これまでの戦艦の副砲や巡洋艦の主砲の15センチよりも、はるかに強力ですから、戦艦と言えども侮れません。また魚雷は防御の薄い、水面下に命中しますから、一発当たれば大変な被害、もしくは沈没の憂き目を見ますから、速度の遅い戦艦にとっては、嫌な相手なのです。

技術者達は戦艦にとって嫌な相手になることを念じて、この巡洋艦を造ったのでした。


重巡洋艦妙高 一万トン以内、20センチ砲までと言うワシントン条約の制限のため従来の巡洋艦より 大型で、強力な砲戦力の巡洋艦になった、


こうして従来の巡洋艦を凌ぐ条約型巡洋艦を、重巡洋艦、略して重巡と呼ぶことになりました。このように各国とも条約の隙間を縫うように、自国海軍の整備を目指すのですが、それでもそれができたのは好景気で、予算が捻出できたからなのです。しかし、条約発効から8年後、どこの国も予算が組めなくなりました
              
                
真珠湾への路
1929年10月 世界恐慌
世界恐慌の発生で、軍艦建造どころではなくなりました。ワシントン条約の失効する2年前、1930(昭和5)年、世界恐慌で台所の苦しくなった各国は、条約の延長と、無制限だった補助艦も制限しようと試みたのです。先に主力艦で60%を飲まされた日本は、補助艦こそ70%にさせろ、と踏ん張りますが世界恐慌で息絶え絶えの列強各国は、これ以上日本を強国にしないために、主力艦だけでなく、”補助艦も60%にしろ”と要求します。

此処に日本は完全に対米、対英、60%に押さえ込まれます。

1930(昭和5)年4月、ロンドン軍縮条約は調印されます。日本が英米に屈服した様な印象を残して。


反英米感情が生んだ新兵器
政府、世論は、あげて英米の横暴を非難し、とくにアメリカに対する憎しみは頂点に達します。加藤(寛)海軍軍令部長は天皇に、政府は賛成でも海軍は反対である、と申し上げ、辞職してしまいます。国論は賛成、反対に二分されますが東郷元帥の鶴の一声で静まるのです。”訓練に制限無し、百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に勝る”誰もこの人には逆らえません、、、


海軍は駆逐艦などの制限外艦艇、航空兵力の充実とさらなる猛訓練を強調して、国論をなだめるのですが、国民の間には、辛く厳しい世界恐慌の恨み辛みと、英米の主張を重ねてみる風潮が現れ始めました。

東郷元帥の言葉が励みとなり、英米憎しの感情の高ぶりが、海軍軍人に、臥薪嘗胆(がしんしようたん)を求めます。そして、なにくそ、の気持ちが、常軌を逸した猛訓練になって現れます。米国との艦隊決戦を何が何でも勝ち抜くために、全海軍の戦力を、無駄なく効果的に発揮し、対米六割の劣勢を跳ね返し、勝利しようと云うのです。(注 臥薪嘗胆(がしんしようたん) とてつもない我慢 中国の故事に由来)


荒天の真夜、無灯火で二十隻もの艦隊が、高速で戦闘行動をし、秒単位のタイムチャートで、一斉反転したり、一万㍍先の、ライターの火をめがけて、第一斉射で命中させたり、70㎞近い駆逐艦が、敵艦の300㍍近くまで肉迫(にくはく)して魚雷を発射したり、無線を封鎖(ふうさ)した状態で、手旗や発光で命令伝達を迅速に行ったり、ともかく一分でも早く敵艦を見つけ、一秒でも早く砲弾や魚雷を敵に命中させる為に人智の及ぶ限りを尽くしたのです。この猛訓練が数々の新兵器を生み出します。それは、
  
(注 肉迫(にくはく) 急激にぶつかりそうなほど近づく)(注 封鎖(ふうさ) 封印し誰もさわれないような状態)


係留式浮遊機雷
従来機雷とは一個ずつが個体で海中に設置されますがこれは、敵艦隊が侵攻してくる海面に二個、三個と、200㍍ほどの鎖で、繋いで設置するのです。これを数多く予想海面に設置しておきます。敵艦は、機雷に直接触れなくとも、鎖を引っかけて引きずりますから、止めてある機雷が二個、三個と、艦体に絡みつき爆発するのです。
味方が引っかけたら自爆になってしまうと、思うでしょうが、味方艦の艦首はこれを乗り切れるように、整形されています。海面下が後部に大きく後退しているのです。これは極秘事項でした。しかし後に海面下を後退させると艦のスピードが出なくなることが解りこの繋留式浮遊機雷は、使用取りやめになりました。


九三式酸素魚雷
1933(昭和8)年、これまで空気で走っていた魚雷の燃料を、酸素にしたのです。なぜそうしたかと言えば、空気を吹き出すと、海面上に泡が立ち、魚雷が向かってきていることが遥か遠くから解ってしまいます。これでは避けられてしまいますし、その航跡をたどれば、潜んでいる潜水艦の位置もばれてしまいます。

空気の替わりに酸素を吹き出せば、海水に溶けてしまいますから、海面上に航跡を残しません。爆発するまで、解らないのです。従って避けることも、潜水艦の位置を割り出すこともできないのです。この時代には水中音探知機(ソナー)は未だ不完全な状態ですから、この無航跡魚雷は大変な機密兵器でした。理屈では各国とも解っていたのですが、燃えやすい酸素を少しずつ取り出す技術が凄く難しく、実験するたびに、暴発を繰り返し、とうとう各国とも諦めていたのです。一人日本だけが開発に成功していました。


事実この威力は凄まじく、8年後に日米が開戦するや、1942(昭和17)年初頭の、バタビヤ沖、スラバヤ沖の両海戦で米豪蘭(アメリカ オーストラリア オランダ)三カ国連合の重巡艦隊を撃破したのです。

敵艦隊はオランダのドールマン少将に指揮されていましたが、旗艦の重巡デロイテルは、三万㍍から放った我が重巡足柄の、酸素魚雷で、轟沈させられました。ドールマン司令官はこの時重傷を負い数時間後に戦死しますが、最後まで付近に潜水艦がいるものと思い込み、味方に対潜警戒の強化を命じ、当てずっぽうの海域に爆雷を投下し続けさせたのです。


この時代米英連合国の魚雷は、到達距離7千㍍の空気魚雷でした。4万㍍近く走る無航跡の酸素魚雷の存在を知りませんでした。ちなみにこのスラバヤ海戦では三隻の重巡を撃沈しますが、いずれもこの酸素魚雷の戦果です。日本艦隊の砲弾は、あれ程の猛訓練を積んだにもかかわらず、一発も当たらなかったのです。二時間以上の間撃ち続けたのに。無論連合国のも。。。


ちなみに大戦も終了し更に38年も後の、1983年のフォークランド戦争時の英国の魚雷は未だ、到達距離8千㍍の、真っ白い泡を吹き出しながら走る、前近代的空気魚雷でした。


サイレントネイビー
世に言う月月火水木金金(げつげつかすいもくきんきん)、土曜も日曜もない猛訓練が始まりました。この事は当時の流行歌にもなり、現在は軍歌として、多くに愛唱されています。技術者達はさらなる個艦優位を合い言葉に、巡洋艦は、敵巡洋艦に、戦艦は、敵戦艦に、個艦同士を比較して、優勢になるように改装につぐ改装を重ね、僅かに許可された新造艦は、制限内で目一杯の強武装、高速力、を求めました、この結果極端に重心が上になってしまい、強風下の訓練で転覆してしまう艦が出現しました。トップヘビーという状態になったのです。

世間は恐慌のあおりで、庶民の生活は窮乏し憤激した、若手将校達が、血盟団事件,や226,事件などを起こし、政党政治は衰退の一歩をたどり、次第に陸軍の横暴が目に付くようになり、満州に、中国に、きな臭い煙が立ち始めます。しかし政治に口を挟むこともなく、ひたすら猛訓練に明け暮れる、日本海軍を、世界中で誰言うともなく、尊敬の念を込めて、サイレントネイビーと呼ぶようになりました


 厳しい訓練で疲れ果て、熟睡する水兵達

国連脱退
こうしてロンドン条約を調印した日本海軍はひたすら静かに訓練に明け暮れますが、1932(昭和7)年ジュネーブでさらに軍縮会議が開かれます。この時は主に陸軍が対象でした。国連はリットン調査団を満州に派遣して、詳しく調査し、満州事変、日支事変、を厳しく詰問しました。ワシントン会議以来10年、会議の度に日本に大幅な譲歩を迫る、英米に対して、軟弱外交、内政失政を理由に、若手海軍将校と、陸軍士官候補生が決起し515事件をおこします。犬養首相が暗殺され、ジュネーブ会議は中断します。

       

    515事件の海軍側軍法会議、中央 高須四郎判司長(裁判長)大佐 
    この時の温情的判決が後の226事件を招いたとも言われている



長引く不況、世界恐慌の影響は張本人のアメリカよりも、国力の弱い日本やドイツで顕著でした。国民は疲弊し、特に東北北海道の農村は壊滅的な被害を被っていました。小作料を払うために家財を売り払い、丸裸になった農民が次に売れるのは娘だけでした。

東北中、北海道中で娘の身売りが相次ぎ、値下がりしてしまいました。東京や大阪の人身売買業者(女衒)(ぜげん)が安く買いたたくのです。小作料を払っても、なにがしかの金額が残り、来年の田畑の耕作や種子購入の資金が残るはずでしたが、値下がりしてしまい、やっと小作料が払える金額にしか成らないのです。


農民たちは値段の交渉などしたことがなかったので、女衒たちのいいなり放題、値切られてしまうのです。見るに見かねた村役場、が仲介に入ることになりました。文字通り身を切る思いで売る娘が、安く買いたたかれないためにです。役場の入り口にこんな張り紙が出たのです。”娘 身売りの節は 当役場まで申し出ください”と。


知らない人、がこれを見れば、役場が身売りを奨励しているように思う人もいるでしょう、今の考え方では理解できない方も多いと思います。誤解を避けるためにこれだけははっきり言っておこうと思います。断じて違うのです。役場の取った行動はあくまでも悲惨な立場の農民たちを救うため、の善意でした。

この時代本人の同意があれば年季奉公は、義務教育年齢を過ぎていれば合法でしたし、また十六歳以上であれば売春も合法でした(戦後十数年も過ぎた昭和三十年代まで)


さらに悲惨なのは、この時代は5人や6人の兄弟、姉妹は当たり前の時代、売られる娘には大抵、徴兵適齢の兄がいました。つらい訓練のさなか兵舎の中で受け取る親からの知らせに、驚き嘆き、涙したのは理解できるでしょう。


一番、世の無常を嘆き悲憤慷慨(ひふんこうがい)したのが彼等兵士の直属の上官、少尉、中尉と言った20才代の青年将校達でした。徴兵で集められ、第一線で国防をになう筈の自分の部下達、、手塩に掛けて屈強な兵士に育て上げる筈の部下達を襲う不幸、帝国陸軍のソルジャー達を痛めつける不条理、こんな事は取り除かねばならない。彼等青年将校達は、こう考えました。(世界恐慌の原因は、2008年のリーマンショックと全く同じ図式、アメリカ発でした)

アメリカの尻馬に乗って、時代を造った政治家や事業家を悪の権化と決めつけ、排除しようとしたのです。


青年将校ばかりでなく当時の日本人は、私の知る限り、多くの人がこう考えていたようです。ですから憎むべきテロでありながら犯人である青年達には、相当同情的でした。マスコミも驚きは表しましたが、けして犯人達を罵りはしなかったのです。むしろこの事件を機に、満州や中国での日本の行動、政策にことごとく反対するアメリカを、憎む気持ちが農村部に蔓延し始めるのです。


国民の同情的反応を見た軍部は、ますます専横的になり、五年後、次なる大事件、226事件を引き起こすことになるのです。が、、、このような国内事情、国民的コンセンサス、を背景に政府は対米強硬路線を走り始めるのです、、、、

翌年ジュネーブ会議は再会しますが、中国からの撤退を求められた日本は、松岡全権の反対演説をもってジュネーブ会議ではなく国際連盟を、脱退してしまいました。

翌1934(昭和9)年日本は、ワシントン条約からも、脱退します。元々日本が目当ての条約ですから、英米の目指す形での軍縮などとうてい不可能になり、主力艦に関する条約その物が無くなる、無条約時代を迎えることになりました。
1936(昭和11)年、補助艦を取り決めたロンドン会議も脱退します。これで補助艦の制限も無くなりました。世間では、折からの大不況を憂いた、陸軍青年将校達が、昭和維新を旗印に、クーデターを起こし、重臣排除、軍部独裁を叫びます。226事件です。まるで制限の亡くなった海軍は、条約時代に密かに研究、設計していた強力な戦艦を、実現させようと、着工します。


戦艦大和、1937(昭和11)年、呉海軍工廠で


1922年(大正11)年、ワシントン会
                                        、、、、続く