ニューヨークフレンチ ヨネザワ 公式ブログ

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そんな折、7月中旬、ゼロ戦(海軍零式(れいしき)艦上戦闘機)が正式採用になりました。航空論者達の期待を一身に背負って、、、次章へ、、、
             
             鉄と血の世紀
第四章 開戦準備      パールハーバーの予感

開戦一年前(1940)の11月、イギリス海軍は、空母イラストリアスから、12機の攻撃機を発艦させ、イタリア海軍の本拠地、タラント港を襲います。さらに一時間後8機が、、、戦艦1隻撃沈、2隻大破、と言う、大戦果を挙げました。世界初の、航空機による戦艦の撃沈です。日本海軍はこの事を真剣に研究しました。この頃一般的には、戦艦が究極の兵器と考える人が多かったのですが 、
アメリカの実力を良く知る山本五十六、小沢治三郎、山口多聞、等の航空主戦論を唱える人達は、ピン、と閃くのです。
”これだ”と。

この時は未だ、日本は参戦していませんが最早、時間の問題でした。


開戦と決まれば、即座に、米太平洋艦隊の根拠地、ハワイ真珠湾(パールハーバー)、を航空部隊で襲いアメリカ艦隊を、港から出すこと無く、その場に沈めてしまおう、と考えたのです。猛訓練が始まりました。地形のよく似た鹿児島県の桜島が訓練場になりました。超低空40㍍で市街地をかすめるように、錦江湾に飛び込み、海面上5㍍を最大速度で、操縦桿を数ミリ誤れば、海ポチャです、桜島の手前で、急上昇、これは雷撃訓練です。
   

鹿児島湾を真珠湾に見立てて九七艦攻の雷撃訓練、桜島の手前が標的、米戦艦空母

一方は高度三千㍍で桜島の火口の真上から、桜島を滑り台に見立て、島を滑り降りるように急降下し、海面激突すれすれ400㍍になって急上昇です。これは急降下爆撃です。この訓練を、タラント空襲の直後から、パールハーバーに向かって出撃する直前、十一月前半までの、1年間休み無く続けました。

新しい魚雷も完成しました。落下した魚雷はいったん150㍍位まで潜り、それから浮かび上がって敵艦に当たるのですが、これでは真珠湾では海底に潜ってしまいます。何しろ深さが7㍍しか無いのですから。この問題を解決したのが、浅深度魚雷の開発でした。何のことはない、海面に激突した瞬間に、羽根が開くのです。スキーのビンディング、を思い出せば直ぐに理解できるでしょう。

ちなみに搭乗員達は何故こんな激しい特殊訓練をするかは知らされていません。ただ皆大変なエリート、侍達ですから、パールハーバーだと想像はしていた筈ですが、、、


敵を欺かんとすれば
10月下旬頃から、土曜午後から日曜日事に、東京横須賀、神戸広島、佐世保などの軍港や都市で水兵達が三々五々、休暇を楽しむ姿がやけに目立つようになりました。普段も日曜ごとの半舷上陸(はんげんじようりく)で休暇を楽しむ姿がそこ此処に見えるのは当然なのですが、いつもより少しだけ多いように見えます。当時水兵は休日でも外出は必ず制服でしたからけっこう目立ちます。もっとも海軍の制服着てればどこでもモテモテですから放って置いても着たのでしょうが、、、

水兵達の帽子には帝国軍艦 赤城 同じく帝国軍艦 加賀 同じく飛龍、同蒼龍、同瑞鶴同翔鶴 比叡 霧島 etcetc等と書いてあります。後に変わるのですが、この頃までは所属軍艦名、あるいは所属基地名が帽子に書いてあったのです。
真珠湾攻撃に参加した全部の艦の水兵達が横須賀や銀座、神戸や佐世保で楽しげに遊んでいるのです。日本中に張り巡らされた米国のスパイ網がこれを見逃すはずがありません。

            

スパイの暗躍 日比谷公園内のレストランテラス


後述しますが、さらに柱島からは赤城や比叡の無線通信の電波が、横須賀からは飛龍、蒼龍の電波、佐世保からは、瑞鶴、翔鶴の電波が平日も土日も日頃と変わりなく、演習中だったり、大本営に報告だったり、帝国海軍主力は日本にへばりついて平和そのもの、、、

大本営からも ”食料や菓子の追加は無しや”とか水兵の衛生面注意だったり、、、
アメリカのスパイ達はペンタゴン(アメリカ国防省)に報告します。
”太平洋は波静か、日本は当分開戦する気は無い模様”、、、
 
(注半舷上陸 乗員を左舷側と右舷側に分け、交互に休暇を取る事、海軍では全員が上陸するのは艦が修理でドックに入った時だけ)


土日の朝、海兵団(陸上の海軍施設)当直将校の訓辞、
10月中旬から土曜日曜ごとに毎週こうです
”本日選別された100名の者、お前達は、これから渡す帽子を被り、本日只今より横須賀 (佐世保でも広島でもどこでも)で休暇を楽しむように、ただし帽子を必ず被ること、そし て民間人に聞かれた場合必ず、帽子の艦名の所属であると答えること、絶対に海兵団の 所属であることを知られてはならない、したがって行きつけの店には絶対に行かないこ と”、、

帽子には軍艦赤城と書いてあります。あいつは加賀です、向こうの奴は霧島、、、

横須賀や佐世保は時ならぬ水兵達の大挙上陸で賑わいを見せ、飲食店やダンスホール、それに今で言う風俗は、かき入れ時到来とばかりねじりはちまきに腕まくり、の週末なのでした。! ちょうどその頃、、、、


新高山昇れ
”進路ハワイ、宜候(ようそろ)”

完璧な技量の上に新兵器まで手に入れ、完全に秘匿された南雲機動部隊(第一機動艦隊)は隠密理に択捉(えとろふ)島、単冠(ひとかつぷ)湾に集結しました。機密保持のため各艦所属の母港から三々五々、ばらばらに日を置いて集合です。いわゆる現地集合。


此処で丁々発止と繰り広げられる日米交渉に聞き耳を立て、成り行きを見守ります。11月26日までに無事妥結ならばその場で解散、進展がなければ、26日に出撃になる手はずです。

この時点では南雲忠一(なぐもちゆういち)長官と草加(くさか)竜之介(りゆうのすけ)参謀長(少将)以下の参謀(幕僚)連中の他は、なんのために択捉島に集合させられたかは、知らないのです。皆多分想像はしていたでしょうが、、、、


11月26日

赤城以下空母6隻を主力に機動艦隊は、護衛の戦艦二隻、比叡と霧島に引率されるようにヒトカップ湾を出港、北太平洋に出撃します。

”進路ハワイ宜候(ようそろ)、、、

12月1日、荒れ狂う北太平洋上を進撃中の南雲機動艦隊に連合艦隊旗艦長門(山本長官)から暗号電報が届きます。新高山昇れ1208

各艦の艦長は事前に厳重に保管していた命令書を艦長室の金庫から取り出します。
書いてある内容は

布哇(ハワイ)方面の、アメリカ太平洋艦隊を撃滅せよ、”

日取りの部分は空欄です。電報の1208が日取りと言うことになります。
この時点でハワイ攻撃のための出撃であることが、全将兵に正式発表されます。艦内いたるところで万歳の渦が沸き起りました。
     

連合艦隊旗艦 長門 二度に渡る改装で一本煙突、上絵の姿になる


もしこの電報が無ければ、出撃すれども戦わず、、、例え目の前にハワイが見えるところまで行っても攻撃は無し、Uターンして帰るだけだったのです。


この北太平洋は一年中荒天続き、晴れることは滅多にない海域です。ですからここを通れば攻撃前に発見される確率はきわめて低くなるのですが、途中で燃料を補給しなければなりません。給油中は最徐行で、随伴のオイルタンカーとパイプでつないで給油するのですが、駆逐艦などは荒波で激しく動き回りますから、もの凄く大変なのです。


しかも戦艦や空母などの大艦は1度の給油で済みますが 小さな駆逐艦は3-4回も給油しなければなりません。台風の最中に給油訓練を積んだのはこのためでした。また機動艦隊の司令長官に南雲忠一中将が選ばれたのも、彼が駆逐艦戦の大家だったからに他なりません。

このことが後の戦いに裏目に出るとは、、、、しかし”今は行けばどうにでもなる、行くまでが勝負だ”、、、、、

ここからはハワイ時間で書きます。
7日午前4時半、この時間までに日米交渉が妥結すれば攻撃は中止、引き返すのです。パールハーバーの北370㎞に達した機動部隊は、歴史的瞬間をあと二時間ほどで迎えることになります。


三時間半前の、午前一時、東京の外務省はワシントンの野村、来栖、両大使宛に極秘の電報を発進し始めます。無論暗号で、、、朝の七時半きっかりにこの最後通牒文書を国務省に届けろ、と言う命令です。対米覚書、最後通牒、いわゆる宣戦布告の電報です。


米国防総省(ペンタゴン)でもこの電報を傍受していました。前から日本の暗号を解読していたペンタゴンは、マジックという名の日本暗号の自動解読機まで作っていました。つまり暗号電報が受信されると、自動的に解読されてプリントアウトされるのです。

文章を読んでみるとストレートに宣戦布告の文字はありませんが、国交を断絶する事が書いてあり、しきりと午前七時半きっかりにアメリカ国務省に、届けるように指令しています。それに暗号機械の破壊処分まで厳命しています。

この時代最後通牒、国交断絶は戦争と同義語です。それを朝の7時30分まで、ではありません。7時30分きっかりに届けろと書いてあるのです。これが何を意味するかは明白です。軍人ならこの時間の直後に攻撃があると考えるのが普通のはずです。即座にルーズベルト大統領やハル国務長官に報告され、ハワイ、アジア地域の全アメリカ軍に対して即座に警戒警報が発せられました。朝の7時をチョット回った時間でした。空襲まで一時間を切ったところです。

しかしこの警戒警報、8時にはハワイに届きませんでした。なぜならペンタゴンや国務省の緊急電報(ホットライン)を使わず、民間局の商用電報を使用したため、何カ所も中継され午後になってハワイに到着したのです。何故そんなことをしたかは不明ですが、この事が米首脳はハワイ空襲が有ることを知っていながら、日本にだまし討ちの汚名を着せるため、あえて太平洋艦隊に知らせなかった、と言われ続ける所以なのです。
(注アメリカでは当時から電信電話郵便は民間の業務なのです)


攻撃隊発進 1941年12月7日 早朝6時(未明)
空母加賀と雷撃隊出動 魚雷が重いため甲板の先端まで滑走しても浮き上がらず、海面に落ち込むように下がってから浮き上がる


攻撃隊発進、頭上には艦隊上空直援(護衛)のゼロ戦が鷹のように油断無く見守っています。その数30機ほど。赤城から最初の一機、ゼロ戦が飛び立ちます、加賀、瑞鶴、翔鶴、蒼龍、飛龍 次々とゼロ戦が発進します。戦闘機が発進し終わると、すかさず爆弾を抱えた九九艦爆(九九式艦上爆撃機)その後に、一番重い魚雷を抱えた、九七艦攻(九七式艦上攻撃機)が飛び立ちます。


重たいので甲板を離れた瞬間、海面に向けて沈み込み一瞬 見慣れていない人なら発艦失敗 海面に激突かと勘違いするでしょう。事実記録映画ではこのシーンで映画館内から必ず悲鳴が上がったのです。それだけ魚雷は重たかったのです。
発艦の時は攻撃隊全部を、滑走距離の長い巡に後ろの方から甲板上に列べて置き、さらに艦を風上に向かわせ、全速力で航走させます。合成風速を十分に利用しながら、最前列にいる滑走距離の短い戦闘機から発艦を開始するのです。一番後ろの、重い魚雷を抱いた艦攻機は多少なりとも滑走距離を長く取れるのですが、それでも命がけ、未熟な者は訓練中に海に落ちてしまい命を落とす者も多かったのです。


全機発艦が終われば上空で編隊を組み、攻撃地へ向け、進撃です。この編隊を組むと言うのが防御上のポイントで、これで敵戦闘機もうかつには手が出せなくなるのです。編隊を組んでいなければ一機ずつやられてしまいますが、編隊を組んでいれば攻撃機の全ての機銃が襲い来る敵戦闘機に向けられます。


さすがの敵戦闘機も、四方から十字砲火(じゆうじほうか)を浴びることになり、じっくりと獲物が狙えなくなるのです。また上空からの水平爆撃の場合、十数機、二十機と言った編隊を組んでいれば、編隊の中心に目標を捉え、全機で一斉に爆弾を落とせばどれかが命中と言うことになります。必ず命中させるためには編隊を組む事が必須条件になるのです。
(注 十字砲火 正面だけでなく側面からも同時に銃撃する状態)

      


母艦上空で編隊を組む九七式艦上攻撃機、旭日を浴びながら


こうして編隊を組み終わった攻撃隊は一路攻撃地、オアフ島パールハーバーを目指します。進撃開始と同時にラジオを付けます。アナログ時代のラジオですからダイヤルを回しハワイ放送(オアフ放送局)の電波を捕まえます。常にラジオの電波状態が最良になるように、飛んでゆけば自動的に最短距離でハワイにつくのです。もっともラジオが有ろうが無かろうが一騎当千(いつきとうせん)の当時の日本の搭乗員、道に迷う(コースを間違える)なんて事はあり得ないのですが、、、、これには訳けがありました。
 
(注 一騎当千(いつきとうせん) 相手よりも遥かに優れた技量や力を持ち、一人で数多くの敵をやっつける事)


始めのうちはノイズ混じりの放送も次第に鮮明に聞こえるようになり、早朝の音楽番組が始ったようです。ハワイアンが軽やかに聞こえ、ビングクロスビーの珊瑚礁の彼方(ビヨンドザリーフ)やダイナショアのタフアフアイ(ハワイの民謡)等が次々と、彼等は当時日本でもその人気は相当なもので、日本の攻撃隊員にもおなじみの曲ばかりです。これから始るであろう修羅場などは微塵も感じさせずに、、、


リクエスト番組ですからリスナーからのリクエストです。ジョッキー(MC)の爽やかな曲目紹介、と共に、ジャズやハワイアンに混じって日本の歌も何曲か混じります。故郷、椰子の実、ハワイは日系移民がもの凄く多いのです。何曲目かにめんこい仔馬がかかります。日本のスパイがハワイは普段と変わらず、平穏そのものと教えているのです。警戒警報が出たりすれば別の曲(荒城の月)になるはずでした、、、


アメリカの事情
この頃アメリカ側は、10日ほど前(11月下旬頃)に取り付けたレーダーを使い索敵警戒行動を取っていました。ダイアモンドヘッドの突端に当時としては巨大な10m四方程のアンテナを設置し、陸軍の通信部隊が運用していたのです。下士官一名と兵卒一名の二名で運用していましたが、初期のレーダー、まだまだ画面情報は判別が難しく、おまけにレーダー初体験、取り扱いも全く慣れていなかったのです。
この日はサンフランシスコから8機ほどのB17爆撃機がハワイに来ることになっていました。


突然レーダー画面に無数の輝点が映し出されます。兵卒が横で居眠りしている下士官を揺り動かし”この無数の点はなんでしょう”と訪ねます。
今日は日曜日、途中抜け出したとは言え、昨夜のどんちゃん騒ぎパーティのシャンパンで二日酔い、寝ぼけ眼で画面をチラリと見やり”シスコ(サンフランシスコ)からのB17だろ”と言ってまた居眠りを始めます。


10分程画面を見やっていた兵卒は、なんだか変だと思います。B17は昼前に来るはずなのです。グースカいびきを掻いている上官を起こすのも悪いので、電話で中隊本部を呼び出し確認を取ることにしました。間が抜けた話ですが電話は此処にはまだ引いてありません、明日月曜には引かれる予定なのですが、、、ダイアモンドヘッドの麓(ふもと)の雑貨屋(コンビニ)で借りるのです。往復小一時間、大急ぎで山を駆け下り、コンビニの受話器を持ち上げたところで、頭の上に超低空で突進してくる攻撃隊の爆音が聞こえ始めたのでした、、、、


 遅かった確認電話、コンビニにて

此処までは日本はウンが付いていたのです。もしレーダーサイトの兵士達が気合いを入れて見張って入れば、攻撃隊はハワイ到着前に、アメリカの防空戦闘機と格闘を演じなければならなかったはずなのです。もっともこの時点でゼロ戦に太刀打ちできる戦闘機など世界中どこにもありません。スピットファイアーだって一目見て逃げ出したほどのゼロ戦、バッファローやトマフォークじゃ、鴨葱(かもねぎ)、になるだけのこと、失望の上塗りになっただけだとは思いますが、、、

日米交渉の雲行きが怪しくなってからは、”ハワイが狙われる”と、アメリカの政府高官や上級軍人達は、皆考えていました。ですから彼等自身も未体験のレーダーをいち早く実戦配備し、日本の侵攻に備えたのです。しかし殆どの軍人兵士達は、”なんでこんな面倒臭い物を”と思っていたのです

”メリーランドもウエストバージニアも居るじゃねーか”、、彼等は大艦巨砲主義のかたまりだったのです。
  (注 スピットファイアー、バッファロー、トマフォーク 当時最新鋭と言われていた連合国側の   戦闘機 開戦後ゼロ戦にばたばたと打ち落とされた。スピットファイアーは英国、他はアメカ)
  (注 鴨葱(かもねぎ) ただ負けるだけでなく、敵になんの被害も与えられず軽く負けてしまうようなこと)
  (注 メリーランド、ウエストバージニア アメリカの主力戦艦)

もっとも日本のスパイ達も、ちょっと見上げれば大概どこからでも見えるのに、この新設レーダーアンテナには全く気が付かず、大本営にはなんの報告もありませんでした。
多分 雀かツグミの霞網(かすみあみ)のでかいの、ぐらいに思っていたのでしょう、、、

ハル国務長官もペンタゴンもそして太平洋艦隊のキンメル長官も、さらにルーズベルトでさへ、日本が攻撃してくる日はあらゆる状況証拠から見て、11月30日(日本時間12月1日)と確信していました。なぜなら日本の外交暗号は、後述しますが既に解読されていたのです。この日はハワイの全軍、全警察がピリピリと緊張の連続で過ごしたのです。それでも東京や佐世保のスパイからは”街は水兵達で賑わっている、空母も戦艦もそれぞれの母港に入港中という報告がここ一ヶ月ほど、の間に幾度となく届いています。


一本だけ怪しげな文章の電報、新高山昇れが有りましたが、”どこの国でもやっている、フェイント、気にすることはねーよ”、、、何事もなく一日が過ぎ去ってしまえば後に残ったのは、安堵と”俺達に向かってこれる訳ねーよ”という慢心でした。

アメリカ人は自分たちの自由と正義、に基づく力、強さに絶対的信頼を置いていたのでした、、、、次章へ、、

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その大艦巨砲時代を終わらせたのは、他でもない、日本海軍自身でした。
                
              大和建造中の世相
たった二日の安全地帯
この大和の工事中、1939年8月末、山本五十六海軍次官(中将)が連合艦隊長官に就任します。二年前、大和の建造、着工に強硬に反対した提督です。米内光政海軍大臣、井上成美(しげよし)軍務局長、吉田善吾 前連合艦隊長官の強力な推薦でした。本当の理由はただ一つ、陸軍のテロから守るため、、、


すでに日独防共協定は、イタリアを加え日独伊三国防共協定に拡大されていました。文字通りソ連共産主義の拡大浸透を防ぐと言うのが大義名分なのですが、このままなら例え三国の内の一国が開戦しても自動参戦の義務はまだ無いのです。がしかし、同盟にしてしまえば、一国が開戦すれば自動的に参戦することになるのです。そうなると現在一触即発状態のヨーロッパ、いつ世界大戦になってもおかしくない状態で、その時には、ドイツ側として参戦させられてしまいます。つまり英仏蘭と開戦しなければならなくなるのです。


ヒトラーは英仏を敵に回すためには日本を戦争に巻き込む必要があったのです。日独伊三国で英仏を早期に下し、その上で究極の敵、ソ連を撃滅するのが最終目的でした。彼にとっては幸いにも日本はノモンハンでソ連と交戦中です。”防共協定を早く同盟にしろ”、とヒトラーは日本に迫るのですが、、、海軍首脳の猛反対に遭い,三国同盟は成立困難になります。しかし日本の外交陣よりナチスドイツは役者が上でした。
”そんなに三国同盟が嫌なら勝手にしろ、俺はお前等が戦っている相手、ソ連と握手するからな”、、、、

悪戦苦闘中のノモンハン事件の最中ヒトラーは独ソ不可侵条約を結んでしまいます。この結果起死回生、捲土重来を期す関東軍は出鼻をくじかれ、慌ててソ連と停戦しようとするのでした。


米内、山本、井上、彼等は当時海軍三羽カラスと渾名され、吉田を入れて四天王と言う人もいますが、スクラムを組み強行に日独伊三国同盟に反対していました。特に山本さんは歯に衣着せず、理路整然と、反対論を展開していたのです。理由は簡単、アメリカと戦争になるからです。同盟推進派の陸軍からは、恨み骨髄、憎まれていました。
”お前等が反対ばかりしやがるから、ヒトラーはソ連と握手しちまったじゃねーか、どうしてくれるんだ、この野郎”、、、こういう理屈です。

急進的な同盟推進派、はあからさまに意思表示、威嚇をしたのです。自宅に脅迫文や、脅迫電話、外から石を投げ込まれガラスが割れたり、今に命を狙われると考えるのは当然でした。誰もが3年前の226事件を思い起こしました。

当時軍の要人警護、の役目は憲兵隊の仕事でした。憲兵は陸軍の管轄、海軍は口が出せないのですが、彼等が一番過激な同盟推進勢力で、殆ど狂気のテロリストみたいなもの。

テロリストに護衛なんておっかなくて頼めません。一番安全な場所、海の上の連合艦隊旗艦、長門、此処なら陸軍も憲兵も、手が出せません。
こんな理由で山本さん本人の希望とは裏腹に、連合艦隊司令長官に親補、就任することになりました。
(注 親補 天皇に任命されること。高級軍人や政府高官は、各種推薦により天皇が任命 する親補職と、部内で任命する任官職に分類されていた、陸軍は師団長以上、海軍は各 艦隊、各鎮守府長官以上、は天皇に名目上は任命権があった)
(さらに注 鎮守府(ちんじゆふ) 軍港を起点に沿岸を防衛する海軍要塞部隊)
 


しかし運命とはいたずら者で、連合艦隊長官に就任した8月30日には、相当きな臭いとは言え、世界はまだ平和でした。しかし二日後、9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦(第二次欧州大戦)が始ったのです。結果的には日本が参戦するための、好戦的な人事、布陣と思われることになりました。そして世界の眼がポーランド侵攻中のドイツ軍に注がれている最中、9月中旬、ソ連との間にノモンハン事件の停戦協定が成立するのです。
くどいようですが解りやすく時間を追ってみましょう
1936 
  二月 2、26事件 
  五月 陸海軍大臣現役武官制復活
  十一月 日独防共協定締結 ソ連共産主義の浸透を防ぐ目的
1937
  十一月初旬 海軍軍縮条約失効、前々から開発研究していた戦艦大和着工(起工)   十一月下旬 日独防共協定、イタリアを加え三国防共協定に拡大、イタリアの発案で        ソ連だけでなくイギリスをも仮想敵に加える
1938
  国家総動員法発動
1939、五月
  第一次ノモンハン事件発生
同 七月
  第二次ノモンハン事件発生
同 八月二十三日
  独ソ不可侵条約締結、ヒトラー、スターリン ポーランド分割の密約を交わす
同 八月三十日
  山本五十六 連合艦隊司令長官就任 
同 九月一日 
  ドイツポーランドへ侵攻、第二次世界大戦(欧州大戦)始る、
同九月中旬
  ノモンハン事件停戦成立
1940 
同四月七日 
日ソ中立条約締結
同九月二十七日
   三国同盟締結 

思えば三国同盟に猛反対し、命を狙われ、安全地帯の連合艦隊に逃げ込んだつもりが、やがて始るアメリカとの死闘の一番槍、になるとは、運命だったのでしょう。そしてその間にも欧州や南米からは独英の戦艦対決の報告が刻々と届きます。


         武士(もののふ)を偲んで


(上図  排水量一万トン、28㎝砲六門、52㎞、ポケット戦艦と呼ばれたグラフシュペー号)
(後部砲塔の後ろ、後甲板上に魚雷発射管三連装二基を装備)

欧州大戦が始って4ヶ月、1939年の師走、ドイツのポケット戦艦、グラフシュペーがイギリスの巡洋艦部隊、エクゼター、アジャックス、アキレス等と死闘を演じ南米ウルグァイのモンテビデオ港に逃げ込みます。三ヶ月間の通商破壊戦でイギリス商船9隻を沈めた末の大捕物でした。


シュぺーは単艦良く戦い、英巡エクゼターを撃破しますが、自らも多数の命中弾を受け、一番最寄りのモンテビデオ港に駆け込んだのです。緊急避難、修理のために。しかし国際法で中立国の港には二十四時間しか居られないのです。表にはイギリスの大艦隊が手ぐすね引いて待ち構えているはずです。苦悩の末、ラングスドルフ艦長(大佐)は出港し、爆薬を仕掛け、全員ボートで脱出した後爆破、自沈させます。そして乗員を解放した後自ら命を絶ったのでした。世界中がラングスドルフ艦長の潔い最期を称えました。


建造中の大和では、工員達が古武士のようなラングスドルフを偲び、艦上のあちこちで黙祷を捧げ、哀悼の意を表したのです。この時は三国同盟はまだ結ばれていませんでした。

シュペー号が沈んだ半年後、七月二十二日、第二次近衛内閣の外務大臣に松岡洋右が就任します。これで三国同盟は決定的になりました。

九月、あれ程反対していた日独伊三国同盟が 締結されます。
後は自動的に対米開戦になるのでしょう。多分大和の完成する頃を見計らって、、、、長門艦上の山本長官は複雑な思いだったでしょう。


そんな長官の元へ近衛総理から、時局について語りたい、と言う誘いがあります。総理の別荘、荻窪の荻外荘(てきがいそう)に呼ばれた山本長官は、総理から訪ねられます。
”アメリカと戦争になった場合、海軍はどのぐらい戦えるのか、五分五分か、あるい は三七か?”

総理も良くて五分五分、と言うことは解っているのです。誰もアメリカに勝てる等と思っている奴はいません。せめて五分五分に戦えるのか、と聞いているのです。

長官は答えます、
”開戦して半年や一年は十分に暴れて見せます。しかし二年、三年と戦が続いた場合、 勝算はありません。その前に外交の力で和平を、それが出来なければ開戦しないで ください”と、、、

総理は、”解りました”と答えました。

”どう戦うか、長期戦になるのだけは避けねば、日本の強さを示しつつ短期に集結さ せるにはどうすればよいか”


思い悩む長官の耳に大変なニュースが飛び込みました。今までは想像するだけで実現するとは思えなかったような出来事が起こりました。それは、、、イギリスの航空艦隊がイタリア海軍の根拠地であるタラント港を空襲した、と言うニュースが飛び込んだのです。
”これだ”、、、、長官だけでなく航空派と言われている提督達は皆膝を打ったのでした。後述します、、、

一方、三国同盟を結んだ松岡外務大臣の頭にはソビエトを入れて、四国同盟にしようとの算段がありました。こうすれば日本がどう行動しようとアメリカは文句を言えないだろうと言うのです。力が対等に、それ以上になるからです。手始めに松岡外務大臣は日ソ中立条約を結びます。相手はくせ者スターリン、北の脅威を取り除いたとして大変な功績と思われましたが、思惑が外れました、二ヶ月後には、、、


英空母イラストリア スからタラントを空襲 したソードフイッシュ雷撃機 1940年時点でイギリスではまだ旧式な複葉機を雷撃機として使用していた。速度も日本の九七式艦上攻撃機と比べて100キロ近く低速だった。


鉄の暴風
着々と進展し程なく完成に向かう大和、日ソ中立条約締結の一月後、1941(昭16)年5月、世界中が驚愕する事件が持ち上がりました。ドイツの最新鋭戦艦ビスマルクと、イギリスの高速戦艦フッドが決闘を演じたのです。実際はイギリスの最新戦艦プリンスオブウエールズも一緒でした。大西洋へ出て行こうとするビスマルク、とプリンツオイゲンのドイツ艦隊を、そうはさせじとフッドとプリンスオブウエールズの英艦隊が阻止しに向かったのです。


今度は正真正銘の戦艦対決、ビスマルクが出現するまでは世界最大の戦艦フッド、完成直前で艦内に工事の配線工や、溶接工を乗せたまま、つまり残存工事をしながら出撃してきたプリンスオブウエールズ、この時点で世界最新の高速戦艦です。


一方対するドイツのビスマルクはこの時点で世界最大の戦艦、プリンツオイゲンは2万トン近い戦艦並みの重防禦巡洋艦、20センチ砲、速度は30ノット(56㎞)以上。世界中が固唾を呑んで成り行きを見守っていました。


世界最大戦艦vs世界第二位の大きさの戦艦、世界第二位の新型戦艦vs世界最新戦艦

どちらが勝つか、世界中の眼は、耳は、北大西洋に向けられました


5月24日、デンマーク海峡が北大西洋に広がるあたり、Poウエールズとフッド、二大戦艦が手ぐすね引いて待ちかまえる所へ、巌流島に現れた武蔵のごとく、ビスマルクが現れました。


二万㍍でフッドが砲撃開始、ビスマルクはまだ撃ちません。ウエールズからはまだ距離があり、撃ち合いには加われません。互いに回避運動をしながら一万七千㍍まで近づいた時、ビスマルクが砲撃を開始しました。第三斉射でフッドの主砲天蓋をぶち抜いた主砲弾は火薬庫で爆発、フッドは瞬時に二つに折れ沈みました。一七〇〇名の乗員で救助されたのは三名だけでした。



(世界最大の巡洋戦艦フッド ビスマルクに主砲の天蓋を撃ち抜かれ爆発し二つに折れて沈んだ)


すぐにウエールズと撃ち合いが始り,ビスマルク自身もウエールズの主砲弾二発を,前部喫水線あたりに受け大量の進水をします。が優れたダメージコントロールシステムにより何事もなかったかのように撃ち合いを続けます。ビスマルクの主砲弾がウエールスの艦橋を捉えます。戦闘、航海システムに大きなダメージを受けたウエールズは、煙幕を張り遁走しました。世界中がドイツの砲撃水準の高さ、光学照準装置の精度の高さに驚愕したのでした。


このフッド轟沈のニュースが写真入りでいち早く世界に配信され、列強諸国は建造中の新型戦艦の工事にさらなる拍車を掛けるのでした。

すでに三国同盟は締結され、工事中のここ大和艦上でも工事関係者は、大艦巨砲の威力を目の当たりにし、竣工後の大和の華々しい武勲を想ったのです。そして手を繋ぐ同盟の絆を信じ、ビスマルクと友邦ドイツの躍進を祝い、そこ此処で万歳万歳の唱和が沸き上がったのでした、、、

飛行機時代の予感
5月25日、フッドを仕留め、手傷を負いながらも強大な戦闘力を維持したままのビスマルクを、イギリス空母、アークロイヤルの雷撃機が襲います。

この襲撃で舵とスクリューを損傷したビスマルクは、スピードも10キロ(7ノット)程度、に落ち、あと僅かでフランスのブレスト、と言うところで5月27日、追撃部隊のロドネーとキングジョージ五世に捕まります。


ロドネーは我が長門と同じ40㎝砲登載の超超弩級戦艦、キングジョージはPoウエールズの姉妹艦、の最新型高速戦艦です。動けなくなったビスマルクに、”フッドのかたき、思い知れ”



ビスマルクを雷撃するソードフィッシュ複葉雷撃機、日本に比べ相当旧式
   
とばかり情け容赦なく、二艦から巨砲が打ち込まれます。キングジョージの38㎝砲、ロドネーの40㎝砲、合計200発、が至近距離からビスマルクに打ち込まれました。ビスマルクは全ての戦闘力、主砲はもとより副砲高角砲、手持ちの機銃まで、艦橋もマストも煙突も、全部破壊された末、殆ど平らな状態にされて沈みました。それにしても凄い防御力、海軍関係者は目を見張りました、、、、こうしてビスマルクは討ち取られました。

しかし本当の殊勲者はビスマルクを足止めした航空機だ、と言う人も、少数ですが確実に存在したのです。さらにその人達は足止めしたイギリス航空艦隊よりも、救援に行けなかったドイツ航空部隊の無能、を重大な欠陥だと見破っていたのです。


注 これが日本であれば航空部隊が救援に駆けつけ、ビスマルクはむざむざ討ち取られることは無かっ たはずなのですが、メッサーシュミットもユンカースも航続距離が短く、かつ空母もドイツには有り ませんでした。この頃ゼロ戦は正式採用前のテスト飛行中で間に合いませんが、急降下爆撃の九九艦 爆、雷撃の九七艦攻これらも世界最高峰の性能を誇っていましたし、双発の九六式陸上攻撃機なら陸 上から直接、ロドネー、キングジョージを蹴散らせたのです。ちなみにビスマルクを雷撃したイギリ スのソードフイッシュ雷撃機は複葉(二枚羽)の低速機、この程度の攻撃機でも英海軍の主力艦攻機 でした。海軍航空に関してはこの時点ですでに日本は質量共に世界最強でした。もっとも日本人自身 そうは思っていなかったのですが、、、


   


(ビスマルクを砲撃するロドネーとキングジョージ5世 手前先頭がロドネー)


つまりどんな大戦艦も、大和も上空を援護する航空隊がいなければ、無用の長物になる、と危惧していたのです。しかし殆どの海軍関係者は、華々しい砲撃戦と沈んだとは言え驚異的な防御力に目を奪われ、ビスマルクを止めた飛行機の殊勲には、また世界注視の中、ドイツ海軍の根拠地の目の前の海で、なぶり殺しにされているビスマルクを救援でき
ずに見殺しにしたゲーリングの航空隊の無能、、、この国と結ぶことの危うさを、大多数は気が付かなかったのです。


工事中の大和艦上では、ビスマルクの悲壮な最期に泪し、刀折れ、矢尽きてなを、撃ちてし止(や)まん、敢闘精神を称え、リッチェンス提督、リンデマン艦長、そして数多(あまた)の将兵達の冥福を祈り、黙祷を捧げたのでした。

一月後の1941年6月、イギリス本土上陸をあきらめたヒトラーは、怒濤のごとくソ連に攻め込みます。”まさかドイツとソ連が戦うなんて”

二ヶ月前には日ソ中立条約を結び意気揚々だった松岡外務大臣は職務を投げ出します。しかしドイツの凄まじい進撃を目の当たりにした陸軍は、南進論を捨て、シベリヤに攻め込もうと言い出します。満州にいる関東軍をシベリヤに進撃させ、ドイツと共にソ連を挟み撃ちにしようと言うのです。北進論の再燃です。

作戦案も上奏されますが、天皇はこれを許可しませんでした。日ソ中立条約を一方的に破毀することを許さなかったのです。天皇に許されなかった陸軍は、再び南進論に、7月、今度は南部仏印(ベトナム南部)に進駐してしまいます。まさにだだっ子、怒ったアメリカは日本に対し、鉄屑や石油の軍事関連物資の禁輸を実施してしまいました。


油がなければ戦艦も空母も動けません。もはや戦争回避の工夫をするよりも、どの様に戦争をするか、の算段の方が重要な事案になってきました。長門の作戦室では黒島参謀がソファで仮眠しながら、徹夜で作戦立案をする姿が目立つようになったのでした、、、
そんな折、7月中旬、ゼロ戦(海軍零式(れいしき)艦上戦闘機)が正式採用になりました。航空論者達の期待を一身に背負って、、、次章へ、、、
             
             


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戦艦大和、1937(昭和11)年、呉海軍工廠で

1922年(大正11)年、

ワシントン会議の結果、建造中の戦艦の廃棄が決まりました、そのため日本でも建造中の戦艦土佐の廃棄が決まりました。ただ解体してしまうのではもったいないので射撃実験の標的艦として利用され、今まで未知だった戦闘時の被害の様相を克明にデータとして残すことが目的でした。


その土佐の、被害データを参考に、改良革新を重ね、ポストジュットランド型をさらに凌ぐ、超超弩級とも云うべき世界最大最強、の戦艦を建造するためでした。

正に個艦優位のサンプルのような戦艦なのです。大和はそんな戦艦なのです


その内訳は

世界最初の46センチ(18インチ)砲、三連装三基、計九門、速力50㎞、基準排水量六万九千トン、長さ264㍍、幅37㍍、舷側鋼鈑41センチ、砲塔前部鋼鈑71センチ、まさに動く城です。


42000㍍の彼方から46センチ砲を撃つと、成層圏まで上がった巨弾は、急角度で、敵戦艦の砲塔上面や甲板をぶち抜くのです。防ぐ手だては有りません。

この46センチ砲は、長門クラス、アメリカのメリーランドクラス、の40センチ砲に比べ、その威力は50%近くも大きくなり、しかも敵戦艦の大砲が届く前に、アウトレインジで撃滅できるのです。40センチ砲は最大射程が36000㍍ですから、6000㍍も射程が長いのです。この6000㍍の間は敵艦は主砲を撃っても届きません。

大和の46センチ三連装砲塔 これが三積まれていた 一基2000トン程


さらに大きな利点は、46センチ砲9門を積むための、艦幅はこの大和の37㍍より細くは出来ないのです。一斉射撃の時、反動で艦体が大きく揺れたり、横にずれてしまうので、この37㍍の幅は絶対必要なのです。つまりぐらぐら揺れたりずれたりして照準どおりに砲弾が飛ばず命中しないのです。

アメリカはどんなに強力な戦艦を造っても艦幅を、33㍍以上には出来ないのです。それはパナマ運河を通過できなくなってしまうからです。いくら金持ちのアメリカでも、大西洋と、太平洋の両方に、何隻もの戦艦を持つことは非常に不経済で、民主主義の国では議会が承知するはずが有りません。

大和とミズーリーの艦幅の違い


このような事情から、日本は数ではかなわないので、絶対にアメリカに追い越されない究極の戦艦を、持つことにしたのです。米戦艦はパナマ運河を通過できる事、と言う制約から、40センチ砲しか積めないはずだ、と言う予測は見事に的中します。


俗に大和は、その巨大さがあまりにも有名ですが、実はこの攻撃力と防御力でこの大きさで完成させたことは、世界の造船技術者の目から見れば、あまりにも小さくまとまっているので、皆その小ささに驚いたのです。戦艦というのは攻撃力と防御力が同じなら、小さい方が良いのです。特に長さは、短い方が良いのです。長ければ、的が大きくなり、敵弾を受けてしまう確立が非常に高くなります。技術者達はその長さを削るのに、皆大変な苦労をしたのです。


照準装置も、それまでの10㍍のレンジファインダーを、やめ15㍍もの大きなものにしました。右目と左目の間が15㍍になったのです。これを海面上45㍍の位置に設置します。艦橋のてっぺんです。42000㍍先の、敵艦のマストの先がかすかに見えるだけで、敵艦本体は見えません。地球は丸いと言うことが良くわかるでしょう。注レンジファインダー、日本語で測距儀と言っていた 左右のレンズの視差を利用して距離をはかる道具)


特別に目の良い兵士にこれを取り扱わせて、正確に距離を算出します。敵艦のマストの先っちょ、兵士の目には水平線に浮かんだゴマ粒の様に見えるはずです。

これにピントを正確に合わせます。目の悪い奴だとこのピント合わせが、ピンぼけになるのです。正確にピントが合ったところで、ゲージを読みます。この距離になると、毛筋ほどのピンぼけが、300㍍位の誤差になるのです。


ゲージの数字を、伝声管で艦底の計算室に知らせます。その時の自艦の速力、敵艦の速力、自艦付近の風力、気圧、敵艦付近の推定風力、気圧、自艦と敵艦までの間の、気象状況、撃つ度に摩耗する大砲の精度、時々の発火薬の湿度、等々数多くのデータを瞬時に入力します。最終的には弾着時の敵艦の予想位置を割り出しているのです。初期のコンピュータで、当時電算機と言いました。

一方てっぺんの、照準機室からは、刻々変わる敵情が知らされます。この間ファインダーを覗く兵士はピントを正確に合わせ続けるのです。電算室ではデータを計算し、砲塔に伝え、大砲の仰角、方位角を決め、てっぺんのファインダーと砲側のデータと艦底の電算機の三者のデータがピタリと重なったとき、引き金を引きます。データが重ならずに早まって引き金を引いても、弾は出ません。無駄弾になるからです。注伝声管 文字どおり声を伝えるための鉄製のチューブ、艦内連絡用にくまなく艦内を巡らせていた。)(電気を使わない)

この仕組みを、後に完成する、武蔵、信濃、と連携させ、旗艦のデータを、三艦で共有し、42000㍍彼方の敵戦艦を、撃滅するはずでした。信濃は大戦末期に、空母として完成しましたが、武蔵は大戦中の1942年8月の完成ですから、ミッドウエーの二ヶ月後になります。最早戦艦の時代は終わっていて、大和、武蔵の連携砲戦をするチャンスは無くなっていましたが、それでも南洋諸島で猛訓練を繰り返したのです。いつか戦艦の出番が来るであろうと云うことで。
この訓練の結果1942(昭和17)年10月には、大和艦上のデータが、自動的に武蔵に送られ、そのデータをもとに42000㍍先の標的に対し、第一斉射で二艦とも同一目標に命中させました。驚異的ですが、最早そんな機会は訓練でしか造れませんでした。


大和の弱点、欠点
世界最強最大の大和でも、船である限り、避けて通れない問題が有ります。防御力を増すためには、全体を分厚く装甲すればよいのですが、それでは重くなり、沈んでしまいます。叉、仮に浮かんだとしても、重くてスピードは出ないでしょう。


そこで、部署事に、重要度を決め、最重要な部分を、一カ所に集め、その部分を厚い装甲で覆うのです。他の、戦闘時にはあまり必要でない部分、例えば食堂とか、寝室、といった生活空間等は、細かく区切り、被害が、区切りの範囲だけで済むようにします。そして水没した箇所の対応する反対側に海水を入れてしまうのです。これで船は少し沈みますが、水平を保つのです。傾いていては照準もできませんし、大砲も撃てません。こうして次々と被害を受けると、次々とその反対側に海水を入れます。


区切り部分が全部水浸しになると、装甲部分(バイタルパート)の中に被害が無くとも、浮力が無くなり沈んでしまうのです。では区切り部分を減らして、被害を受けないバイタルパート部分を増やせば、浸水をしませんから、沈まないかと言うと、これも駄目です。装甲の重みで沈んでしまいます。大和はこのバランスを採るために長さを264㍍にしました。そして区画をより細分化し、バイタルパートは、限度一杯の厚い装甲をしたのです。

922年のワシントン条約で廃棄処分された、戦艦土佐を砲撃実験に供した、そのデータを充分に取り入れました。水中弾、魚雷対策でした。しかしその対策を充分にしたため、重量過多となり、どこかで装甲を削らなくてはならなくなりました。

大和はこれを、艦底に求めたのです。主要部舷側、主要部甲板、主砲塔天蓋、及び前面、これらの場所は今までにない強力な装甲で保護しました、また従来は考えもしなかった煙突までも、蜂の巣鋼鈑と呼ばれる、レンコンのように穴を開けた鋼鈑を取り付けたのです。物凄い重量になり、このままでは沈んでしまいます。


こうして艦底は一部を三重底、全体では二重底として、装甲は施しませんでした。まあ通常は艦底を、敵に見せることはないし、魚雷も艦底には当たりません、浮遊機雷だけが怖いのですが、当時は大和の艦底をねらえるほど深く機雷を仕掛ける、ことは無かったのです。この事が思わぬ結果を招きますが後ほど語ります
もう一つの弱点、設計段階からこの事を憂う技師は意外と多かったのです。それは、

大和の副砲、15センチ3連装四基は、大和用の特別なものではなかったのです。それは、ロンドン条約で補助艦まで制限されてしまい、技術陣は仕方無しに15センチ砲の軽巡洋艦を造りだしたのです。20センチ砲の重巡は定数に達してしまい、造れなくなったのです。軽巡、古鷹、加古、衣笠 三隈の四隻です。しかしその設計は特殊なものでした。

いざ開戦となった暁には、たちどころに20センチ砲に積み替えられるように造ったのです。公には制限内の軽巡であると発表します。大きさも軽巡にしてはやや大柄な、6500トンです。各国は新型軽巡だと信じていたのです。


1936(昭和11)年、補助艦に関する備砲、や個艦ごとのトン数制限、隻数等を取り決めた、ロンドン軍縮条約を脱退します。すかさず既に造って置いた20センチ砲に付け替えてしまいました。軽巡が、重巡に化けたのです。この時降ろした、三連装15センチ砲を、砲塔ごとそっくり大和に乗せたのです。前後左右四カ所、12門、片側一斉射撃能力は9門、と言うことになります。


しかしこの15センチ砲、砲塔は、軽巡時代のそのままですから、殆ど装甲が無いのです。しかも15センチ三連装砲塔ともなると、弾火薬庫も小型ながら、真下にあるのです。此処にもし直撃を受けたら、結果は明らかです。しかし主砲弾ほど、威力もないので、この部分はうやむやのまま、完成させました。急いだのです。もし大和の希望どうり艦隊決戦が起きたら、どうなったのでしょうか、、、、。

大和最大の弱点とされていた15㎝三連装砲塔、図の通り装甲が無かった。台座の円筒形は弾火薬庫


さらなる欠点は、速度が50㎞(27ノット)と中途半端なことでした。この武装でこの防御を施し、あと6㎞高速の56㎞(30ノット)にするためには、大和の長さは300㍍をこえることになります。先にも書いたとおり、この長さでは敵弾を受ける確立が非常に高くなり、艦隊決戦の折りには、全く不利になると言うことなのです。これは結果論ですが、大和と同時代の諸外国の戦艦は、全て大和より早いのです。つまり列強諸国と日本は考え方が根本的に違いました。その理由は国力でした
例えば
イギリス(キングジョージ五世、プリンスオブウエールズ、他計五隻)は52㎞、
         

上図プリンスオブウエールズ




アメリカ(ワシントン、サウスダコタ、他計6隻)も52㎞、それに(アイオワ、ミズリー他4隻)は59㎞、
ドイツの(ビスマルク、ティルピッツ、計2隻)は55㎞、
イタリア、(リットリオ、ローマ、ビットリオベネト、計3隻)は56㎞、
フランス、(ジャンバール、リッシリュー、計2隻)は56㎞


これらの戦艦は、ロンドン条約廃棄直後に建造が始められた、大和と同時代の戦艦です。つまり条約が有効なうちに、密かに設計をしておき、期限切れと共に即座に工事を開始した戦艦なのです。その建造ポリシーも、通商破壊を目的としたドイツ、以外は皆同じです。全て艦隊決戦を想定して建造され、56㎞を目安にした戦艦ばかりです。アメリカのミズーリクラス等は59㎞以上なのです。しかも各国は、46センチ砲を我慢して、従来の40センチ砲にしてまで、速度を重視したのです。


もし46センチ砲を8門ないし9門装備して、適切な防御を施し、速度を56㎞にすれば、その排水量は、優に九万トンを超えることになります。このような大艦を建造するとなると、従来に建造設備では間に合いません。船台、ドック、クレーン、等々、全て造り直さねばなりません。世界恐慌後の不況時代、ここまで、金と時日をついやする事は許されません。40センチ、56㎞クラスなら、英米共に、一度に4-5隻は建造できるのです。


後発列強の日本は、一度に建造出来るのは3隻まででした、設備が無かったのです。列強国の仲間入りをした気にはなっていても、その実力はまだまだ後進国で、この事を海軍首脳は解っていました。だからこそ2隻で、5隻と対等以上に戦える戦艦が欲しかったのです。しかし、300㍍を超える戦艦を、極秘裏に造ることは出来ません。ドックを掘り返したりすればたちまち、凄い船を造ることがばれてしまうからです。完成までは、何が何でも秘密にして置かねばならないのです。完成後ならば、列強が慌てて対抗しようとしても、4-5年は無敵艦隊が保てます。幕末、維新の時代、英米にされた砲艦外交(黒船)を、今度は日本がやれるのです。これが狙いでした。


この速度に対する認識は、世界の技術水準を認識出来なかった、海軍艦政本部の、ミスでした。大艦巨砲の時代が続いていれば、この50㎞27ノットは全く問題の無い速度の筈でした。何しろ敵弾が届く前に、大和、と武蔵の巨弾が、敵戦艦を、撃沈するのですから。しかし、その大艦巨砲時代を終わらせたのは、他でもない、日本海軍自身でした。
                
              大和建造中の世相
たった二日の安全地帯
この大和の工事中、1939年8月末、山本五十六海軍次官(中将)が連合艦隊長官に就任します。二年前、大和の建造、着工に強硬に反対した提督です。米内光政海軍大臣、井上成美(しげよし)軍務局長、吉田善吾連
合、、、続く

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