創刊の言葉 | 『連続無窮』

創刊の言葉

この小さな雑誌は、仏教、とくに法然や親鸞に共感するものたちの手になる「求道」の記録である。「求道」とは古びた言葉だが、生死を一貫して納得できる意味を求める営みをさす。不条理と不安に満ちた人生を十分に生き、かつ、満足して死んでゆける「完全なる立脚地」(清沢満之の言葉)を手にすること、そして、そうした立脚地に立って新たな人生を切り拓いていくこと、それが私たちの願いであり、求めるところである。




私たちは「求道」の前提として、

1. 人は浅深の違いはあっても、虚仮(こけ)よりは真実を欲する存在であることを認めたい。

2. 人は条件次第でいかなる振る舞いをするのか、予想も出来ない危うい存在であることを自覚の第一歩とする。

3. 人は関係性のなかにある存在であり、孤立した個人という考えはとらないし、社会と個人という二元論にも与しない。




13世紀の日本の宗教的天才の教えに導かれながら、あくまでも私たちの身の上にあらわれた現代の課題に誠実に取り組むことで、自身の思惟や信仰を深めてゆきたい。そしてできうれば、これから一段と激化するであろう世界苦に耐え、またその解決に資する普遍的救済論の構築をも視野に入れたい。




「連続無窮」という言葉は、親鸞の『教行信証』の末文に引用されている、中国の浄土教思想家・道綽の言葉である。いわく 、「前(さき)に生ぜんものは後(のち)を導き、後に生ぜんものは前を訪(とぶら)え、連続無窮にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す。無辺の生死海(しょうじかい)を尽くさんがための故なり」(『安楽集』)。





大意は、およそ次の通り。縁あって仏教に出逢うことが出来たものは、その喜びを後に生まれてきたものに伝え、遅れて生まれてきたものは、先輩を訪ねて教えを請い、仏教の伝達が連続して絶えることがないようにしたい。なぜならば、人間の、限りない生死の苦悩は、かかる連続無窮の伝法によってしか解決できないからである。生死海に浮かぶ一人としてこの言葉を重く受け止め、小誌の表題とする。





2006年8月

同人を代表して 阿満利麿