日野皓正氏の行動を全面的に支持する! | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 トランぺッターの日野氏が指導している生徒に本番中に手を挙げたと騒いでいますが、私は日野氏の行動を支持します。

 

 手を上げる=暴力=悪というこの単純な行動で何事も割り切ろうと世の風潮がどうしても納得できません。

 

 とうぜん、目がつぶれるや耳の鼓膜が破れるなどの過度な暴力は反対ですが、相手に誤りを気付かせる程度の実力行使は、特にこのケースで言えば「躾」のレベルではないでしょうか。

 

 私はもうすぐ5歳になる孫を周囲から言わせれば「溺愛」しています。

 

 でも、きちんと叱るときは叱ります。

 

 その孫の目に涙があふれるのを見るのはまさに断腸の思いです。

 

 でも、心を鬼にして叱り飛ばします。時にはお尻を叩きます。

 

 それは、本人の身体に危険が及ぶ時、例えば道路への飛び出しや鋏を持って冗談で振り回す時などです。

 

 一緒に散歩をするときはどんな交差点でも「右見て左見て右見て」と必ず安全確認を実施します。しかし、時に興奮して飛び出す時があります。

 

 その時には、日ごろ優しいジィジが目が飛び出るくらいに叱ります。

 

 なぜなら、この子が事故に遭うことなど考えたくないからです。

 

 そしてあとは、周りに迷惑をかける行為をした時です。比較的広い場所なら走り回ることを許しています。しかし、トレイを持った人たちが大勢いるところでは厳しくだめと伝えます。

 

 それでも、走り回るときはきつく叱ります。時に手を上げることもあります。

 

 愛する孫が人様に迷惑をかけても平気な大人になってほしくないからです。

 

 叱ると私の心も悲しいのです。

 

 叩くと私の手もすごく痛いのです。

 

 でも、孫を愛していればこそする行為です。

 

 これを「愛の鞭」と呼ぶのではないでしょうか。

 

 件の日野氏の行動を見てみると、ソロパートを順番にしていくところで、問題の生徒が自分のソロを極度に長くして終わらなかったので、日野氏が強制的に止めさせただけのことです。

 

 この少年は日野氏に才能を認められ、内弟子のように接してきたそうです。その師匠の静止を振り切り、さらに手で演奏を続けたために、日野氏が手で威嚇しているだけのことです。

 

 あたっているのかどうかわかりませんが、例えあたっていても大した暴力ではありません。

 

 その少年の行動で自分の晴れ舞台を邪魔された他の子供たちの心境はどうなのでしょうか。

 

 私は日野皓正氏のような超一流の芸術家・職人さんから真剣に教えてもらい、真剣に叱られ、真剣に指導される子供たちは幸せ者だと思います。

 

 いまどき大人が真剣に叱ってくれることってあるでしょうか?

 

 ちょっと手を上げると暴力を振るわれたと自分の子供だけしか見ない親が学校に文句を言いに行きます。

 

 腹の座った校長先生がいるところはそれを毅然と跳ねのけますが、教育者としての資質に乏しい人が校長をやっているところは、事なかれ主義ですべて手を挙げた方が悪いと先生を庇いません。

 

 先生も真剣に子供と向き合っていたら必要な愛の鞭を振るうこともあると思っています。これの何が悪いのでしょうか?

 

 この構図は戦争はだめ、絶対ダメ何があっても戦争をしちゃいけないと言っていることと通じていると思っています。

 

 北朝鮮がミサイルを日本の庭や屋根の頭越しに飛ばしているのに、日本は何もできません。

 

 この角度は計算されています。それは韓国の領空を飛ばさないとか、アメリカの領土には到達しないと瞬時に計算できる角度で打ち上げています。

 

 でも、日本の上空であれば問題ないといつもの秋田県沖に落としたり、津軽海峡上空を飛ばしたりしています。

 

 いつか、それが落ちてきたり、上空で核爆弾が炸裂したりしたときには日本人がたくさん犠牲になります。

 

 それを防ぐためにある程度の実力行使は必要となるのですが、すべての実力行使が「武力行使」で、これを戦争行為とみなし、一斉にマスコミが非難していつまでたってもこの危険性を排除できず、逆にその危険性は今回の核実験で大いに増してきています。

 

 弾道ミサイルが落ちてくるときはマッハ数十の速度で落ちてきます。

 

 それも垂直に近い角度で落ちてくるのですが、それを迎撃するのは至難の業です。

 

 迎撃可能ですが100%ではありません。

 

 また垂直に近い角度で落ちてきているのですから、迎撃ができてもその破片が日本人の頭の上に落ちてくる可能性は消去できないのです。

 

 いままでは誰が何のために日本にミサイルを撃ち込むことがあるのか?という意見が多かったと思いますが、今はいつ何時北朝鮮が日本にミサイルを撃ち込むのかわからないという意見の方が多いと思います。

 

 これを戦争行為とみなして憲法違反だと騒ぎまくる人たちに聞きたい。

 

 もしそれであなたの愛する人が犠牲になってもいいのですか?と。

 

 私はいやです。またその犠牲になった人たちの話を聞くのもいやです。できるだけ他人ごとではなく、自分のこととして受け止めるようにしていますから。

 

 いやこれは自国の防衛だからいいんですとしたり顔で売国奴政治家は言うでしょう。

 

 だから、どこまでが自国防衛で許されて、どこからが許されないのかをきちんと国会で議論すべきだろうと思うのです。

 

 日野氏の件でも「手を出したから負け」と言う人も多くみられますが、あの世界の日野皓正が後進の指導を請け負い、それも大したギャラではないと思います、中学生たちに自分の今までの技や哲学を真剣に向き合って指導する姿勢自体が大いに評価されるべきであり、その御大ともいえる指導者を怒らせたその少年がどれだけうぬぼれてのぼせ上っていたのかを考えるべきだと思います。

 

 暴力=悪、軍隊=悪、戦争=悪と単純化し、それによって日本国の安全を脅かし、日本の伝統を破壊し、外国のための日本を創ろうとしている輩に手を貸していいのでしょうか?

 

 どこまでが暴力で愛の鞭かを判断することは傍からは難しいと思います。でも、今回は親も本人も自分が悪かったと反省しているようです。

 

 それがどれだけ真剣に日野皓正氏が子供たちに向き合っていたのかを知る術ではないでしょうか。

 

 親方の技を盗み取って自分のものとしてきた日本の風習は時代遅れかもしれません。

 

  しかし、師と仰ぐ親方の一挙手一投足を観察し、それを自分のものとして身につける行為こそ技の伝達の極致ではないでしょうか。

 

 その証拠に、名工の技が数千年にわたって伝承されてきているのが日本文化であり、マニュアルという陳腐な手段でしか伝えられない米国の物づくりとどちらが素晴らしいかは一目瞭然ですから。

 

 師匠の技を盗むというのは、どれだけ真剣に一つのことに専心できるかだと思います。そういう日本の文化を足蹴にするような今回の報道姿勢は良くないと思います。