2011年東日本大震災 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

歴史エッセイ集「みちのく福袋」


http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/6256


を改訂するために、昨年書いた震災関連のブログを

整理・リライトした。


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○2011年東日本大震災


・第3の原爆投下/津波の現場/
 3月30日・名取市閖上
 2011年4月/貞観大津波と
 貞山堀/負けないで/東海・
 東南海・南海3連動地震/
 喪失感と痛み/仙台の戦災復興計画


・第3の原爆投下

大地震といえば宮城県の場合、1978(昭和
53)年6月12日のM・7.4/震度5の
宮城県沖地震だった。死者28名、建物全半壊
7400戸。この時の津波は、仙台港で
30センチだった。過去に30~40年周期
で大地震に見舞われている為、30年以内に
大地震の確率80%と言われ続けていた。

で、来たと思ったら
2011年3月11日14時46分宮城県
牡鹿半島沖約130kmの海底24kmで、
マグニチュード9.0(史上最大の大地震)
が発生。東北から関東の広範囲で10メートル
超の大津波が襲来した。海洋研究開発機構は
東日本大震災の震源域で、日本列島が乗った
北米プレートが太平洋側に約50メートル
移動して、約7メートル隆起したと発表した。

1995年1月の阪神大震災がマグニチュード
7.3。死者6434人。2010年の
ハイチ大地震がマグニチュード7.0で死者
31万6千人なのに対して、東日本大震災は
マグニチュード9.0。マグニチュードは
1上がるごとに地震エネルギーは30倍に
なるという。マグニチュード9とは、
7クラス地震の30×30=約1000倍。
それは三陸から茨城沖にかけて、3000
メガトンの核弾頭が一斉に爆発する威力に
匹敵するという。米中露などの1メガトン
の核弾頭が東京上空で炸裂すると、960
万人が即死して首都壊滅する。それが
3000発。第3の原爆という表現は、
あながち的外れではないだろう。

長崎原爆で被災した美輪明宏さんや、広島
原爆で被災した長老、東京大空襲を語る
小沢昭一さんなどが、今回の東日本大震災に
よる大津波現場を見て、広島・長崎の原爆
投下後+大空襲後の廃墟と同じだと語っている。
私が仙台市宮城野区の蒲生海岸と、名取市閖上
の廃墟に立ってみて体感したのも、やはり
原爆投下直後の広島・長崎の写真であり、
映画では「戦場のピアニスト」後半に出現する、
瓦礫の山と化した町の中と一致した。日本に
第3の原爆が投下されたのだと。

広島8月6日8時15分17秒に投下された
原爆・リトルボーイは、43秒落下し、
8時16分に摂氏数千度のファイアーボール
を発生させた。この瞬間まで広島市民の誰もが、
普通に生活していた。原爆投下後の町は、夏だと
言うのに蝉も鳴かず、市電も自動車も物売り
の声もせず、不気味なほど静かだった。仙台市
宮城野区蒲生や名取市閖上のの現場に立った
時、これと似た静寂があった。閖上では
浜辺近くで動く重機の音が、唯一人間の生活音
と言えた。鴎や猫の姿もなく、植物の緑も
見つからない。不気味な死の町と化していた。

原爆投下後の広島は、軍が道路の遺体を道路の
両側に積み上げて救援道路を確保し、街の膨大
な数の遺体は穴を掘って重油をかけて焼いた。
この惨状はハイチ大地震の現場に近いかも
しれない。これらの遺体は8時16分まで
普通に生きていたのだ。記録に残る最期の言葉
はNHK広島中央放送局の古田アナウンサーが
発していた警戒警報だった。

「8時13分、中国軍管区発令。敵大型機3機、
 西条上空を西・・・」

彼は死の瞬間まで、ごく普通に生きていたのだ。

まさかこのエピソードをもう一度書く事になろう
とは、思ってもいなかった。2011年3月
11日14時46分の30分後、岩手県大船渡市
に8m超、宮古市に19m超、宮城県女川町に
17.6m、南三陸町に15m超の大津波が襲来
した。南三陸町防災センター・危機管理課の
遠藤未希さん(24歳)は、防災センター庁舎で、
津波警報を流し続けていた。最初は「10mの
津波が来ます、ただちに高台に避難ください」
だった。すぐに13mに修正された。だが防災
センターを呑みこんだのは15mの津波だった。
15時20分頃だと思われる。5月2日、沖の
海から彼女の遺体が発見された。彼女は9月に
挙式の予定だったという。死にたくなかった
だろう。

彼女の決死の言葉に突き動かされて避難行動
をとり、命を救われた人も多いだろう。しばらく
そちらで休養していてください。そのうちに町
も人も、あなたが生まれ変わりたいと思える
ように再生していますから。被災地には広島風
お好み焼き隊も、長崎チャンポン隊も来てくれ
ました。いずれ生まれ変わったならば、南三陸町
名物をひっさげて、どこかの被災地に出向いて
ください。


・津波の現場

3月20日、私は自転車で原ノ町から梅田川
河川敷を進み、福田町の七北田川福田大橋から
東に進んで蒲生海岸を目指した。海岸から
5キロ内陸の福田大橋近くの川中に、津波
で流されてきた家があった。だが付近の建物
は無事。家庭菜園の畑も見うけられた。

高砂中学辺りから、道路上に破壊された家の
部材などの散乱が目立ち始める。この辺りに
桜並木+公園がある。あと20日もすれば
満開の桜が咲き乱れるだろう。手前の堀に
JR貨物のコンテナと車が一台転がっている。
シュールな光景だ。

ここから先は倒壊し、津波で流された家屋の
残骸だらけとなる。川の河川敷に、あるはずの
ない家が建っており、高砂橋の下にも家が
刺さるようにして建っている。道端に積まれた
材木片の向こうに、地蔵堂+お地蔵さんが
そのまま生き残っていた。

見渡す限り倒壊した家屋の残骸の光景。中野
小学校の校舎は大破していて、四角い構造物が
校舎の2階に突き刺さっていた。蒲生の海岸
に続く道は破壊され、どこが道だったのか
わからない。海岸には濃い松林があった
はずなのだが、疎らに木が見える。あの木
の先に高砂神社から蒲生干潟に面した、標高
6mの日和山。大阪市天保山(標高4m)に次ぐ、
日本で2番目に低い山があった。山頂のベンチ
に腰掛け、干潟の鳥たちを愛でながら、
暖かい陽射しの中でくつろぎ「のどかだ!!」
とつぶやいていた思い出が甦る。視界の先に
蒲生海水浴場とバードウォッチングの干潟。
鯉の洗いの店「すなぎ屋」と鯉の生け簀や、
乗馬クラブなどもあった。

津波で破壊され尽くした光景の中に立つと、
ただただ茫然としたまま、七北田川河口の
水面を眺めるより他なくなる。路上に人は
いるが、誰もが無言で、恐ろしく静まり
返っている。テレビでは「家はなくなった
けれど、命は助かりました」
というメッセージを耳にするけれど、家が
無くなる喪失感というのは、こういう茫然と
した薄ら寒い静けさなのだろう。絶句と
深い感情を押し殺したような静寂と、死者
たちの無念の声が、心の中で鈍痛のように
こみ上げてきた。

被災地は第3の原爆投下に例えられ、数々の
修羅場を潜り抜けてきたカメラマン、不肖
宮嶋をして「カメラマンになった事を後悔
した」と言わしめた現場なのである。
未だに未発見遺体が埋まっているだろう場所
である。車椅子が運河の中にあり、子供の
靴やぬいぐるみが散乱し、現場に立った
被災者が涙も出ぬまま絶句して、茫然と立ち
尽くした場所である。テレビで現場を取材
して伝える記者やレポーターが、思わず
こみ上げてきた感情を抑えられずに泣き出す
シーンをよく見かける。泣くよな、そりゃ。
仕事でなければ、沈黙と静寂の中で、ただ
ただ祈っていたい心境だった事だろう。


<朝日新聞立川支局・三浦英之4月10日
 記事>

遺体はどれも、一ヶ所に寄せ集められたように
折り重なっていた。リボンを結んだ小さな頭が、
泥の中に顔を埋めている。細い木を握りしめた
ままの30代男性がいる。消防団員が教えて
くれた。

「津波は引くとき、川のようになって同じ場所
を流れていく。そこに障害物があると、遺体が
いくつも引っかかってしまう。」

遺体は魚の腹のように白く、ぬれた蒲団の
ように膨れ上がっている。涙があふれて止まら
ない。隣で消防団員も号泣していた。

震災翌日から現地に入り、18日間取材を
続けた。最初の数日はまともに記事が書けな
かった。目の前の惨状に、何がニュースか
わからなくなり、気がつくと空ばかり見ていた。
「なぜ、こんなにも多くの人が―」瓦礫の
中を歩くたびに、怒りと悲しみに満ちた疑念
が、胸の中に押し寄せた。

被災地では、土砂にまみれた時計の多くが、
地震が起きた午後2時46分ではなく、午後
3時20分前後で止まっていた。津波が押し
寄せた時間だ。多くの命が奪われたのは、
地震発生直後ではなく、おそらく約30分後
のことだ。

そう思うたびに胸が張り裂けそうだった。
30分は決して長くはないが、何かしらの対策
を講じることができた時間だからだ。その
与えられた時間を有効に使える対策や手だてを、
私たちは事前に準備することが出来ただろうか。
答えはたぶん「ノー」だろう。今回の津波では、
海岸沿いに建てられた病院や老人施設で、
たくさんの人が亡くなっている。多くの人が
車で移動し、避難所さえも津波で呑まれた。

私たちが真っ先に取り組むべきこと。それは
あの30分に人々がどう動いたのかを克明に
記録・検証することだと、私は思う。それを
新しい国や地域の仕組みにいかした上で、後世
にしっかり語り継いでいこう。


・3月30日・名取閖上(ゆりあげ)

蒲生の現場に行った10日後、私のマウンテン
バイクは、国見・伊勢堂山を駆け下り、土橋
から広瀬川に架かる澱橋、大橋、評定河原橋、
霊屋橋を渡り、愛宕橋から河川敷遊歩道に
出て長町の広瀬橋から、河川敷下の道を千代
大橋のたもとまで進んだ。

この間大震災や大津波の影響を思わせる
光景は一切無く、気温も春を思わせる10度
あたりまで上昇し、誠にのどかで平和な光景
だった。思わず「♪ 広瀬川 流れる岸辺♪」
という鼻歌を歌いたくなる、川のせせらぎと
雲雀の鳴き声が聞こえていた。

千代大橋から仙台バイパス歩道を南下。
「どこがガソリン不足なんじゃい」
と思うほどの交通量で、上り車線は渋滞気味。
だがやはりガソリンスタンドに並ぶ車の列は
見かけられた。名取川に架かる名取大橋を
渡ってすぐ、河川敷の道へと曲がる。河川敷
に広がる畑は何事もなく、ビニールハウスも
無事。川中には流木も家も車も無く、いつも
と変わらぬ平穏な光景が続いていた。

袋原地点でこの先堤防工事中との事で、河川敷
道を降り袋原の住宅地を東進。この辺りも
いつもと変わらぬ日常の光景が続いている。
だが仙台東部道路の高架橋の下から、光景は
一変する。明らかに閖上内浦のヨットハーバー
から流れ着いたであろう小型クルーザーが
高架下にあり、家屋の材木が散乱。道を塞ぎ、
通行が困難になった。河川敷上の道が空いて
いたので、自転車を降りて引き歩きしながら、
潮でぬちゃぬちゃする瓦礫の山を進む。

生臭い異臭がたちこめている。民家などの
野菜や魚の腐った臭いだと思いたいのだが、
津波は大量の砂と土砂を伴って押し寄せ、
家も車も人体も押し流してから引いていった。
土砂のやや深い個所に人体が埋まり、その上
に家屋の木材などが覆いかぶさったまま
だとしても、おかしくない現場だった。
漂流物の中に、幼児用の水色の靴が片方だけ
転がっていて、胸が痛んだ。

河川敷上から見る名取側河口付近の水面は、
穏やかだった。前方に松の緑を発見。閖上の
シンボル「あんどん松」だ。

「生き残ったか!! 」

あんどん松は伊達政宗が遠州から取り寄せ、
閖上湊と仙台城を結ぶ街道に植えた松並木と
いうから、樹齢400年程。かつては2km
にわたっていたそうだが、今でも530m間
に69本が残る。幹の平均直径75センチ。
樹高30mの黒松である。閖上の人だろうか、
樹の根元の漂流物を、座敷を刷き清めるように
清掃していた。

古樹はその土地に深く根ざした地霊である。
神秘思想家のシュタイナーは、大地に流れ
植物に働きかける国土の光を「光エーテル」
と呼び、土地と深く結びついた琉球・アイヌ・
大和民族は光エーテルの強い民族だと語った。
その民族魂(民族霊)を体験するには、植物
を体験する事だと。そして司馬遼太郎が断言
する如く、日本は松の国なのである。

植物にはそれぞれの性格があり、感情がある。
大津波の大災害でどれだけの松が犠牲に
なった事か。樹齢200年の陸前高田の
ド根性松は、仲間たちを想って慟哭していた。
自らも海水の塩分に苛まれ、深く傷ついて
いた。彼だけではない。岩沼の武隈の松
も、多賀城の末の松山の松も、あんどん松
たちも、身を震わせながら慟哭していた。

あんどん松に挨拶した後、河川敷堤防下の道
を進む。家の輪郭が残っていて、内部だけが
ごっそり津波にやられていた。しばらく東に
進んでから右折して閖上の町へ入る。残骸、
残骸、また残骸。無事な建物など1つも
無い。町1つが「壊滅」するとはこういう事
なのだ。住宅地も多かったが、かまぼこ工場
や会社の事務所など、コンクリート製の小ビル
もあったと記憶している。ただどこが魚市場
でどこがヨットハーバーだったか、記憶が
追いつかないほど、わけがわからない状態に
なっている。道路は砂でジャリジャリし、
コンクリートと剥き出しの鉄骨、潰れた家の
廃墟と化していた。

商店街跡には、潰れた家に魚屋の看板。変形
した自動販売機。かつて私も食事をした食堂。
幼稚園も小学校も潰れていた。寺も大屋根に
潰されていた。という事は墓も流されたか。
神社はどこにあったのかすらわからない。
瓦礫の山の中で唖然・茫然としていると、
だんだんに「この世は夢ぞ、ただ狂へ!!」 
と、南北朝動乱で京の都を焼かれた民衆の
ように、半ば発狂して踊り出したくもなって
くる。体力と気力がひどく減退し、沈黙と
苛立ちが交錯するのだった。

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・2011年4月

3.11後、仙台市は電気・ガス・水道
のライフラインがストップ。電気は2日後
に復旧したが、断水+都市ガス復旧は場所
によって1ヶ月かかった。

4月7日午後11時32分ごろ、宮城県沖で
M7.1の大地震が起こり、震度6強の
激しい揺れを観測した。近所まで大阪
ガスの工事屋さんが来ていたのに、都市
ガス復旧=風呂が延期になった。毎日震度
4~5の余震が続いていたが、6弱はひと味
違っていた。コンビニは未だに部分的再開
にとどまり、スーパーには行列+整理券
配布の入場制限+1人10点までの買い物
制限という状態だった。

じゃあ何処で食品を購入していたかと言えば、
普段ならば立ち寄りもしない八百屋、魚屋、
肉屋などの個人商店+老舗の仙台味噌屋、
蒲鉾屋、仙台駄菓子屋などだった。場所は
八幡町、木町、荒町などを自転車で駆け
回った。街中にはリュックを背負った
にわかチャリ族の買出し人で溢れた。

11日の3日後に街に出てみたが、電気・ガス・
水道が止まっていた為、たいていの飲食店は
閉まったまま。炭火焼きの牛タン店が奮闘している
くらいだった。そんな中、藤崎デパート向かいの
白松が最中中央通店に少し行列が出来ていた。
握り飯やインスタント麺のやきそばなどが続いて
いた為、老舗の甘味は何よりだと思った。ひと口
サイズのミニ最中だけだったが、10個入手。

白松の創業は昭和7年。最中のパリッとした皮は
宮城産の粳米(もち米)。餡は十勝産大納言小豆+
大福豆白餡+ゴマ餡+栗最中の4種類。非常時の
疲れていた時に家族揃って食べた最上級の甘味
というのは、記憶に深く刻まれた。無論家が倒壊
せず、家族が無事だったからの味なんだけどね。

仙台駄菓子の1つ「太白飴」。広瀬町の兵藤飴
老舗は創業明治17年。もち米を蒸して麦芽を
加えて糖化させ、出来た水飴を煮詰めて純白
長方形につくった、自然食品である。飴は
日本書紀にも記された、日本古来の甘味である。
そんな由緒ある飴屋ながら、いつもは素通り
していた。一袋20個以上入っていて300円。
それを包装紙で包んでくれる。さすが老舗
だった。自然な淡白な甘味がいい。太白とは
愛の星・金星の事。愛の星金星の甘さに慰め
られた。

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・貞観大津波と貞山堀


大津波の被害といえば、岩手県三陸海岸の
明治三陸大津波やチリ地震津波の印象が強い。
1896(明治29)年6月15日午後7時
32分釜石東方200キロ、M8.2~8.5
の地震発生。30分後、北海道の襟裳岬で
4m、青森県八戸で3m、岩手県宮古で
14.6m、大船渡で22.4m。死者は
2万1915名に達した。

徳川家康の駿府記に慶長16(1611)年
12月2日・慶長三陸津波の記述に「伊達政宗
所領海涯人屋波涛大漲来・悉流出す溺死者
5千名余」とある。現在の岩手県宮古・釜石・
陸前高田・大船渡は全て気仙郡であり、仙台藩
の所領なのである。(気仙沼・志津川などは
本吉郡)津波は内陸から約5kmの若林区霞の
目辺りまで押し寄せたと、浪分神社の創建
記録にある。

さらに平安時代の貞観11(869)年旧5月
26日夜半、M8.4の巨大地震が発生。
陸奥国府・多賀城城下に津波が来襲し、
死者4千人余。大地震の発光現象で、昼の
ように明るくなったという。この時、仙台
平野の内陸3kmまで津波の痕跡が確認
されている。だが海岸線は延々砂浜で、
河口は大湿地帯であまり人が住んでいな
かったため、仙台方面の被害は少なかった
だろう。

伊達政宗が着工を命じた貞山堀は、石巻の
北上川河口から鳴瀬川河口・塩釜・多賀城
を経て、仙台の名取川・亘理の阿武隈川
河口まで60キロを掘削した日本一の
長さを誇る大運河である。かの司馬遼太郎
も{街道をゆく・仙台石巻編」を書くに
あたり、真っ先に訪れたのがこの貞山堀
である。南部藩と大崎平野の米は北上川から
石巻に集積され、阿武隈川の湊から江戸に
向けて積み出された。江戸時代初期、江戸
で消費された米の3分の2は、仙台米だった
という。仙台藩は巨大な米穀商だった。

貞山堀は、仙台藩が政宗時代から明治まで
総力をあげて取り組んだ大土木工事である。
両岸の松並木や防風・防砂林も、軟弱な
砂の地盤を固める目的もあって、こつこつ
と植林してきたものだ。だが今度の大津波
でことごとく流された。工事に携わった
全ての祖先の無念さが私の中に流れ込んで
きた。

歴史とは人類・民族・個人の夢が自分の夢
として受け取り、その感情が流れ込む事だと
神秘思想家のシュタイナーが語る。夢の感情
には死者が働き、現世と死者の共同体を形成
する事が人智学であると。私は歴史の時空を
旅しながら死者たちと対話を重ねるうちに、
あの世もこの世も関係なくなってきたような
気がする。万象は連鎖し、全ては繋がって
いる。当然、今回の地震と津波で犠牲に
なった方々とも、共に再生の物語を紡いで
いきたいものだ。


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・負けないで


2007年5月27日はZARDのボーカル、
坂井泉水さんの命日。ZARDと言えば津波で
壊滅した陸前高田市の、流された自宅前で
瓦礫の町を見ながら泣きながらZARDの
名曲「負けないで」をトランペットで
吹いていた、県立大船渡高校3年の
佐々木瑠璃さんが健気で感動的だ。

陸前高田といえば、高田の松原でただ1本、
奇跡のようにすっくと立っている「ド根性松」
が新聞で紹介されていた。今や陸前高田復興
のシンボルになったこの松を復興の象徴に
しようではないかと。

松は極度に痩せた土壌にも根を張り、土のない
岩のような場所でも生き延びられる。潮風
にも強いことから、古来より海岸の防風・
防砂林として松原の名所をつくってきた。
司馬遼太郎は「この国のかたち」で、日本
は松の国であると断じている。

雪にも風にも強い松は、どんなに絶望的な
状況にあっても、光を見出す手助けをして
くれる植物だという。スピリチュアルな意味で、
松は光の木なのである。光輝く針葉の力強い
波長で、光を引き寄せ、生命との繋がりを
再発見させてくれる植物なのである。

「めでためでたの若松様よ 枝も栄えて葉も
 茂る(山形県・花笠踊り) 」

陸前高田市の南、大船渡市は歌手・新沼謙二の
故郷だが、北国の春には、やはり白いこぶしの
花が似合う。気仙沼市は、美味い牡蠣を養殖
するには、川の上流の森を豊かにして。海に
養分を送り込もうという取り組みをしていた
町だ。しかし海の養殖場はもちろん、山火事
で森もかなりの痛手をうけた。

今は瓦礫の撤去が先決だろうが、一段落したら
木と花を植え続けよう。松原の松はもちろん、
桜やケヤキ、楠などを植えて、花見の名所や
仙台市と比肩するようなケヤキ並木をつくり、
100年後、200年後の子供たちに手渡し
たいものだ。 気仙沼の大島には向日葵畑や
菜の花畑が似合う。

さらに陸前高田で生き残ったのは松だけでは
なかった。海岸から1.5キロの今宮天満宮に
在る樹齢700~800年の天神大杉も津波
に流されなかった。鳥居や拝殿・社務所は
流された。そしてこの杉の下で、幕末の頃、
北辰一刀流開祖・千葉周作も幼少時に遊んで
いたという。

千葉周作は1793(寛政5)年に、気仙町
字中井の天満宮下で生まれた。曽祖父は
相馬中村藩の剣術指南役。祖父は北辰無想流
を創始した。父は指南役に推挙されながら
馬医者を開業した人物。とはいえ、根っから
の剣術家系と言っていい。幼少時の周作は
杉の木の下で木刀で素振りでもしていたの
だろう。

6歳の頃、中西派一刀流・浅野義信に入門し、
1822(文政5)年、29歳の時江戸・日本橋
品川町に剣術道場
「玄武館」を建て、後に神田於玉ヶ池に移転。
幕末3道場の一に数えられ、山岡鉄舟や新撰組
の山南敬助など門人多数。1835(天保3)年
には水戸藩主・徳川斉昭の剣術指南役となる。

今宮天満宮の杉の木は、千葉周作に成り代わり、
町の人たちに「負けないで」と語りかけている
のかもしれない。

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・東海・東南海・南海3連動地震

時代区分でここから先は幕末というのは、江戸湾
浦賀沖にペリー提督率いる米艦隊4隻が来航した、
1853(嘉永6)年7月以降だろう。8月には
長崎にロシア軍艦4隻が来航している。翌年の
嘉永7年2月にペリーの米艦隊7隻が再来し、
3月に伊豆・下田と渡島(北海道)の箱館を開港
する日米和親条約が締結される。

この1857(嘉永7)年以降、人災+天災も
相次いだ。5月に京都大火。7月に伊賀地震。
そして12月23日にM8.4の東海地震、
24日にM8.4の南海地震、26日に
M7.4の豊予地震と、フィリピン海プレート
が連動する3連続地震+大津波が発生。
死者・不明3万人超という東日本大震災に
匹敵する犠牲者を出した。

この凶兆から脱すべく、嘉永は安政と改元
された。その直後八丈島沖を震源とするM6.9
の地震が発生。夜だった為江戸では多数の
火災が発生し、死者4000人。4月には
再び江戸大火が発生した。6月15日M7.4
の伊賀上野地震。11月5日M8.4の安政
南海地震。11日夜10時、M6.7の
江戸直下型・安政大地震。12月23日M8.4
の安政東海地震。翌年安政2年2月1日
M6.8の飛騨地震と続く。こういう状況を
「踏んだり蹴ったり」という。

今回のM9+余震はおおむね太平洋プレートで
続いているが、それがどうもお隣のフィリピン
海プレートを刺激したらしい。すでに長野・
新潟と秋田県沖では地震が発生しているが、
16日12時頃には栃木を震源とする地震が
発生。他に東京湾、神奈川西部、新島・神津島、
静岡東部、石川・福井県境、飛騨地方も地震
活動が活発化している。安政5年2月26日
にも、M6.7の飛越地震が起きている。

安政の2回連続東海・南海・東南海連動型地震
は、元禄~宝永年間にも起きている。赤穂浪士
討ち入りの翌年、1703(元禄16)年12月
31日の元禄関東地震、関東南部は大津波。
M8.1(死者52000人とも20万人
とも) 1707(宝永4)年10月28日、
M8.4~8.7の宝永地震。死者2800~
2万人以上。大津波での流出家屋6~8万戸。
49日後に富士山大噴火。安政大地震はこの
149年後。さらに149年後は2001年。
言われ続けている東海地震が今後30年以内に
発生する確率は87%、南海60%。M8~
8.5が予想されている。神津島~富士山
ラインが危ないという指摘もある。

想定外の巨大地震で日本海溝全体が同時に壊れた
とされる東日本大震災の地殻変動。関東フラグ
メント(関東平野真下にあると推定される小規模
プレート(安政2年の江戸大地震がこのプレート
直下型)のひずみが増大し、フィリピン海プレート
もだいぶ沈みこんでいるという。明らかに東海
地震+関東直下型地震が非常警戒レベルの切迫
した状態にあるという事だ。

3連動が恐ろしいのは地震の規模について1+1
が2ではなくそれ以上に巨大化するからだ。長大な
震源域にわたってプレート境界が滑り続けるために
断層のずれはより大きくなる。その結果震動もより
強く、津波も高くなるのですとは、古村孝志・東京
大学地震研究所教授(地震学。別々の地震がわずか
な時間差で起きた場合津波に津波が重なって波高が
上がる現象も起きる。15~20分差が最も顕著に
なるという。

南海地震がM9・0規模だと大阪湾を5・5mの
津波が襲い大阪府全域が水没する。大阪城がある
上町台地の一部だけが岬のように水面上に残る。
東南海地震では三重県から愛知県にかけて多数ある
中部電力の火力発電所が打撃を受けそう。
東京湾北部地震で最大1万1000人が死亡し、
建物や生産額低下などの経済被害は112兆円にも
及ぶという。

684年白鳳地震、南海地震。東海・東南海地震が連動
887年仁和地震、南海・東南海地震。東海地震が連動
1096年永長地震、東南海地震。東海地震が連動
1099年康和地震、南海地震が単独。
1361年正平地震、南海・東南海が連動。
1498年明応地震の2ヶ月前に南海(単独)
1498年明応地震、東南海・東海地震が連動
1605年慶長地震、南海・東南海・東海地震が連動
(揺れは大きくなかったが津波が発生)
1707年宝永地震、M8.6南海・東南海・東海地震
 が連動。
1854年12月23日・安政東海地震(東南海・東海
 地震が連動)
・12月24日・安政南海地震、安政東海地震の
 32時間後
・12月26日・豊予地震 M7.4

1856(安政2)年11月11日・安政江戸地震 
 M6.7(関東フラグメント・江戸直下型)

1944年12月昭和東南海地震、M7.9東南海
・37日後三河地震 M8.0
1946年12月昭和南海地震、M8(南海(単独)

歴史史料から見て東海地震が単独の例はない。
発生の周期はおおむね90~150年間隔。これらが
連動して3つの地震が同時に発生するか、数時間
から数年の時間差で個別に発生する。前回の昭和
東南海地震、昭和南海地震の際には、
東海地震は発生しなかった。その為東海地震を
引き起こすアスペリティ(固着域)は破壊されて
おらず、現在でもM8クラスの地震を引き起こす
だけのエネルギーを蓄えたままだと考えられる。
東海地震に関してはいつ発生してもおかしくない
と警戒されて、特別な観測態勢がとられている。

○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o

・喪失感と痛み


「このたびの「東北地方太平洋沖地震」により
被害を受けられた皆さまに、心よりお見舞い
申し上げます。1日も早い復旧と皆さまの
ご健康を心からお祈り申し上げます」

といったCMが、ACの押し付けがましい
道徳観よりも鬱陶しい。かくも無味乾燥で
形式的な、印刷された年賀状のような言葉が、
本当に被災者の心に届くとでも思っているの
だろうか? まあ、とりあえず何か言っておけ
みたいな思考停止し、なおかつ人の心の痛み
を察する感性に欠けているような彼らに
「心から」などという白々しい言葉を聞き
たくない。

こうした非常時には、思いがけず一人一人の
人間が発する言葉が、うわべを取り繕う虚偽
を露わにしたり、被災地との距離感を露呈
したり、逆に魂を震わす言葉に遭遇して涙
する事もある。JNN絆プロジェクトで
仙台出身の大友康平が語りかける奥底から
搾り出す言葉には心が震えた。

「被災者の方々が経験した痛みと喪失感には
比ぶべくもありませんが・・・」

仙台出身の彼の心の中に無ければ「痛みと
喪失感」という言葉は出てこなかっただろう
と思う。そうなのだ。海沿い以外の東北人は、
家と家財の一切を流されたわけでもなく、
肉親や友人・知人と死別したわけでもない。
にもかかわらず主として東北に居住する私
たちは、心の中に大きな痛みと喪失感を抱え
ているのだ。

それは例えば私の場合、「気仙沼の魚市場と
マグロ漁船は、夏休みの絵日記に描いたんだぞ!!」
という思い出に始まる。父の仕事の関係で母と
共に気仙沼に滞在し、碁石海岸などを訪ね
たり、南気仙沼の高台から大川に打ちあがる
花火見物をした、幼少期の家族の思い出だ。
アルバムには陸前高田の松原で、友人たちと
写る私がいる。冬休みに水道管の漏水調査の
アルバイトで、大船渡に滞在した事もある。
寒かったなぁ!! 先祖が登米町という事もあり、
北上川沿い~牡鹿半島は家族でのドライブ
コースだった。

サンドイッチマンは震災前の気仙沼を見て、
「高校時代の合宿で来たよな」と語っていたが、
私の高1時の合宿は山元町の廃校になった
小学校だった。野蒜海岸(奥松島・東松島市)
には林間学校で行ったよな・・・松島海岸は
従兄弟の居住地で幼少期から勝手知ったる庭の
ような場所だった。

3月11日の震災当日、仙台駅が閉鎖になって
松島に帰れなくなった従兄弟が、うちに
避難してきた。ローソクの灯る部屋でラジオの
ニュースを聴きながら、大津波の甚大な被害に、
暗澹とした気持ちに沈むばかりだった。仙台市
若林区荒浜の浜辺に2~300人の遺体が放置
されたままになっている・・陸前高田、大船渡
壊滅、気仙沼炎上中などの悲報が次々に飛び
込む中、松島に関する情報はなかった。

もともと従兄弟+叔母の住む所は、仙石線松島
海岸の高台の方にあるため、おそらく津波も
あそこまでは押し寄せてくるまいと思って
いた。松島に関する情報は、停電が復旧して
ネットが使えるようになってから、ツイッター
を通じてやってきた。

「旅行者です。松島では瑞巌寺の避難所にいま
 した。お坊さんがよくしてくれまして・・・」

瑞巌寺は松島の観光桟橋から国道45号線を
挟んで、あまり高低差の無い所にある。大津波の
威力からすると、壊滅していてもおかしくない
場所だった。まずはひと安心だった。その後
地元番組で、松島海岸に並ぶ土産物商店街の
レポートを見た。床上浸水してライフライン
復旧以前の状態だったが、家が流されたり破壊
されることもなく、海岸間近の場所にある
アクアマリン松島のペンギンたちも無事だった。
雄島への橋は流されたけど。

塩釜から亘理の阿武隈川河口+鳥の海までの海沿い
は、過去十数年にわたって「海チャリ」と称する
サイクリングコースとして、濃厚な思い出がある。
広瀬川河川敷から仙台バイパスを南下。名取市を
縦断して岩沼市へ。阿武隈川河川敷を河口まで
下る。ここまで約30km。

2007年には河口にアザラシの「あぶちゃん」
がやって来ていた。私も見に行った。案の定
人だかりが出来ていた。アザラシ君は10分に
1回くらい水面に顔をのぞかせ、こちらを
見ていた。

帰路は河口から防潮堤の上のサイクルロードを
延々と北上。右手に南北一直線に伸びる水平線。
さすがに太平洋だなと思う景色だ。波の音+
松林から香る松風。数あるサイクリングコース
の中でもここが最高の道だろうと思っていた
まさかこの堤防+松林を乗り越える津波が
襲ってくるなど、思ってもいなかった。。

コースは仙台空港脇の貞山堀から閖上漁港、
名取川河川敷~広瀬川へと続く。走る事6時間
あまり。つまり今回の大津波の被害地域は、
それらの思い出も一緒に押し流していったのだ。
そういう喪失感であり、心の痛みなのだ。

人にしても同様だ。確かに名前も知らないし
親戚でもない。けれど例えば、蒲生のお地蔵さん
の先でアイスを買った店のおばちゃんとか、
仙台市役所前の市民広場の南三陸フェアで
ホタテを焼いていたおばちゃんとか・・同じ
街の住人としての関わりが無数にある。
会社の営業やマスコミ関係者の人も、
1歩踏み込んだ人間関係が必ずあるだろう。

津波被害の地域は、全て海沿いの景勝地だ。
釣りやサーフィンのレジャー。夏の海水浴場
や民宿。美味い海産物の店。家族や友人、
恋人とのドライブ+デート。特殊な例だと、
仙台新港周辺で深夜の暴走行為。東北の
住人+東北と関わった全国の人々は、
そうした美しくもほろ苦い思い出の数々を
失い、当分の間「喪失感と痛み」に苦しめ
られるのだ。その感情を理解出来るかが
距離感の違いが出てくる
のだろう。

○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。


・仙台の戦災復興計画

仙台も日中だいぶ暖かくなり、春めいて
きた。震災後3月中閉店したままで、
何の役にもたたなかったコンビニも、4月
になってようやく開店し始めた。

そこで私は定禅寺通り西端角のローソンで、
100円のアイスバーを買い、定禅寺通り
中央分離帯公園のベンチに座り、アイスを
食べながら千思万考的休憩に入った。
「あっ、空が青い!!」
普通ここから見る空は緑色だ。ケヤキは
まだ枯木立だが、まあいい。葉が芽吹く
のは新緑5月頃からだ。

ローソンの裏手は、明治時代に新宿中村屋
を創業した、相馬黒光の生家があった所。
その向かいの西公園は、伊達騒動で原田甲斐
に殺された伊達安芸の屋敷跡地。そしてこの
定禅寺通りだ。いつも思うことだが、広い。
12mの中央分離帯公園。その車道側に
2列のケヤキ並木。車道は各々3車線。
両側歩道は各々7m。車道側歩道に2列の
ケヤキ並木。計46m4列のケヤキ並木。
東京青山の表参道も緑濃い並木道だが、
さすがに中央分離帯2列の並木は無い。

ケヤキは藩政時代からの仙台名産・仙台
箪笥の材であり、樹齢100年材は和太鼓に
用いられるため、新潟県佐渡島の鼓動村
にも植えられている。定禅寺通りのケヤキ
は、1958(昭和33)年に戦災復興を
願って156本の若木を植樹した事に
始まる。以来50年余を経て、見事な
大木群に成長したというわけだ。夏は
蝉時雨が濃く、本州で一番涼しい場所と
なる。

定禅寺通りは西公園側から東二番丁交差点
まで、わずか800mくらいしかない。
車の通行を遮断すれば、通りはたちまち
祭りの舞台に変身する。5月の仙台青葉祭り
の武者行列やすずめ踊り。8月の七夕パレード。
9月の定禅寺ジャズフェスティバル。12月
にケヤキ並木に電飾する光のページェント。
2011年7月16日には第1回東北六魂祭
が開かれた。祭の舞台として機能している。
震災後、東北に未来都市をという論調が盛り
上がっているが、つらつら思うに、この
定禅寺通りはすでに未来都市のニーズを
満たしていると思う。

仙台市中心部は1945(昭和20)年7月
10日未明の仙台空襲によって瓦礫の山と
なった。仙台駅から西公園が見えたそうだ。
私は震災で瓦礫の山と化した蒲生や閖上の
現場に立つまでは、正直なところ、空襲後
の仙台写真に大した思い入れはなかった。
だが津波被害で壊滅した町は、これと
まったく同じ光景だった。これが三陸の
宮古から陸前高田、大船渡、気仙沼、志津川、
石巻、野蒜、塩釜、仙台、亘理、山元、
相馬から茨城県へと延々続いているのである。
それだけでも少し気が遠くなってくる。

仙台市の戦災復興事業は、1946(昭和
21)年に岡崎栄松が市長に就任したことに
始まる。岡崎は1882(明治15)年
名取郡秋保村長袋生まれで、この時64歳。
東ニ番丁通り、青葉通り、広瀬通り、定禅寺
通りなどのメインストリート、西公園や
県庁前の勾当台公園整備などの戦災復興
土地区画整理事業は、全て岡崎市長の主導に
よって行われた。

国道4号線でさえ二車線だったこの当時、
仙台駅から仙台城方向に延びる青葉通りと、
並列に東西に延びる広瀬通り、定禅寺通り
と、それらと南北に交差する東ニ番丁通りを、
いずれも50m級幅+無電柱とした。舗装前
のだだっ広い土地は、乾燥して砂埃が舞い
「仙台砂漠」と揶揄され、市長の政敵から
は「無駄・無意味」と批判された。これに
対して岡崎市長は「青葉通りは私の死後、
必ずや評価されるだろう」と語った。
無論、岡崎市長に感謝こそすれ、その
先見性を批判するような愚かしい仙台市民
など、誰もいないだろう。

小説「海の壁/三陸沿岸大津波」や「関東
大震災」などの著作もある作家・吉村昭は
「関東大震災ノート」というエッセイの
中で「明治維新後、大正時代に入って深化
し複雑化したさまざまな矛盾が、あたかも
化膿部分から膿が一時にほとばしり出た
ように流れ出た歴史的意味をもつ災害だと
思う」と述べている。

近代日本史にはいくつかの「以前と以後」
の節目がある。明治維新・関東大震災・
昭和20年8月15日の終戦の日。そして
1995年1月17日の阪神大震災と
2011年3月11日の東日本大震災+
福島原発事故である。死者・不明者2万人
の大災害以後、日本人の意識は根本的に
変化した。この歴史的潮目は今後、政治
やエネルギーインフラを含む都市計画を、
行きつ戻りつしながら幕末から明治の
ように大きく変容させてゆく事だろう。