ユネスコ外伝 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

 「思い起こせ。あの時、きみは一人だった」という言葉が
ある。いつもそうだった。新しく何かが始まる時、そこには
たった一人の、やむにやまれぬ熱い想いがあった。そして
少数の理解者。いつもそこから動き出す。

 47歳のマザー・テレサが、単身カルカッタのスラム街に
入った時、持っていたのはカバン一つと5ルピー(150円)
だけだった。この時世界は、彼女が何者なのかを知らなかった。
 アンリ・デュナンが「赤十字」の構想を説いた時、人々は
「夢物語」だとして相手にしなかった。
 「たった一人の熱い想い」が数多く積み重なってゆく時、
新しい時代が生き生きと動き出す。全国で「よさこい」が踊られ、
地雷が無くなってゆく。ただし「熱い想い」を支えるキーワード
が二つある。それは、いつの時代においても変わることのない
普遍的価値、「愛」と「自由」である。

 ヒトラー、スターリン、ポル・ポト、東条英機などの政治
指導者は、いずれも何らかの片寄った主義主張に凝り固まって
いた。彼らが政治・軍事的行動以外で共通しているのは、まるで
申し合わせたように「文化」に対して制限を加えるか、弾圧を
行っているという事実である。
 彼らは自らの枠の中で作り上げた、一元的価値観でしか判断
する能力を持たなかった。「あれか、これか」と「選択」し、
異質なものは「排除」した。多様で異質な価値観を取り込んで
成長してゆく余裕など、まるでなかったのである。彼らは時代
を陰鬱な色に染め上げ、人々は笑いを失い沈黙した。「文化」
の側からすれば、彼らは「愚鈍なおじゃま虫」にすぎなかった。

 権力や暴力という「力」を手に入れた「おじゃま虫」たちは、
その力を行使して、民衆を自らの偏狭な価値観に従わせようと、
あらゆる努力を試みた。よけいなお世話というものである。
 本質的に愚鈍な彼らは、歴史から学ぶという能力を持って
いない。いまだかつてただの一度も、暴力を行使した権力が
長続きした事などない。民衆が求めているのは、自由で豊かな
生活なのだ。自由の敵である彼らを、民衆は地獄の底深くに
叩き落す。

 近年では、宗教的独裁者になりそこねた麻原彰晃(本名・松本
智津夫)という男がいる。彼もまた愚鈍だった。ピラミッド型の
ヒエラルキーを作り、頂点に君臨することを望む。そして「私は
偉い。私は正しい。私は絶対だ」とほざく。「私は正しいの
だから、私に反対する者は間違っている。ゆえに消滅しても
かまわない」という論理を展開する。
 ヒトラーや麻原に代表される独裁者集団は、決まって人々の
自由意志を奪い、「力」で物事を解決しようとする。愛と自由は
息をひそめる。こうした環境では、ロクな文化は生まれない。
第二次世界大戦中のドイツや日本から、文化の名に値するものを
見つけ出すのは困難な作業だ。幼稚な歴史認識でヒトラーを
尊敬した「オウム」という集団は、汚物と毒物だらけの「王国
文化」しか生み出せなかった。

 だが自由な風が吹きはじめると、「文化」は身についた汚物や
泥をはらいのけ、生き生きと成長してゆく。人は愛を歌い、生命
を踊る。わいわいと、うるさいくらいに。こうした中から、洗練
された美も生まれてくるというものである。

 1945(昭和20)年8月15日。日本が無条件降伏し、戦争
が終わった。全国どこへ行っても、アメリカ軍の空襲によって
一面の焼け野原だった。誰もが食糧不足に悩まされ、空きっ腹
をかかえ、その日を生きる事で精一杯だった。
 一方、アジア全域から日本本土へ引き揚げて来る「復員」も
始まった。中国大陸だけでも、約400万人の日本人がいた。
上田康一は上海の日本大使館で終戦を迎えた。翌1946(昭和
21)年4月、日本本土へ。外務省職員だった彼は、終戦連絡
事務局連絡官として仙台市に赴任してきた。仙台も大空襲によ
って、焼け焦げた建物が残る荒れ果てた町になっていた。

 文化班のメンバーとしてGHQとの交渉にあたっていた上田は、
11月25日の朝日新聞の囲み記事を、食い入るように読んだ。
「これだっ。」
焼け野原の中で暮らし、精神まで腐りかけていた上田は、新聞
記事に一筋の光明を見出した。

「ユネスコ・・・」

 記事は、フランスのパリ・ソルボンヌ大学で19日から開催
されている、第一回ユネスコ総会にまつわる外電だった。パリ
は今「ユネスコの月」と呼ばれ、絵画展や映画祭、音楽祭や
科学講演などが毎日開催されている、と紹介されていた。
 ユネスコ(国連教育科学文化機関)は、1945年11月に、
アメリカやイギリスの文化人や政治家がロンドンに集まって
会議を開いた際、戦後の国際社会の為に設立を決めた、国際
連合の付属機関である。

「文化の交流と相互理解を通して、コツコツと地道な平和の
地固めの仕事をする」のが目的だった。第一回総会には、後の
文化大臣・アンドレ・マルローや、哲学者のポール・サルトル
らが出席した。

 記事を読んだ上田は、日本にもユネスコを作ろうと考えた。
「文化を踏み潰して、軍国主義の教育で突っ走ってきた結果が
これだよ。文化の復興と国際交流による相互理解、それに新しい
教育が必要なんだよ。」
 上田はまず、文化班の同僚にユネスコを紹介し、その必要性
を説いた。もと満州国外交部に勤務していたしんば榛葉英治が、
敏感に反応した。彼は戦後、妻の実家がある仙台に来ていた。
上田も榛葉も、まだ20代の血気盛んな年頃だった。

「俺たちだけだと、世間的な重みに欠ける。何せ国連だからな。」

 榛葉が組織作りにかけまわった。同じ文化班の村岡勇が、
恩師の土居光知東北大学教授を紹介した。上田と榛葉は、土居を
「仙台ユネスコ協力設立準備委員会」の委員長に担ぎ上げる事に
成功した。準備委員には、桑原武夫東北大学助教授など、仙台の
文化人が名を連ねた。

 上田は発足趣意書を起草した。1947(昭和22)年7月
19日、東北大学講堂に市民600人を集めて、「第一回民間
ユネスコ運動世界大会」が開催された。

「仙台ユネスコ協力会・発足にあたっての声明・・武力を棄て
去った日本人は、世界平和を望み、平和促進の文化運動に参加
して、何らかの貢献をしたいと切実に願うようになった。 
日本人は過去の態度を改め、真理愛好の精神と、世界文化に
対する将来の希望を抱いて、新しい国の歩みを始めている。
─戦争は人々の心の中で始まるから、平和の守りも人々の心の
中で打ち立てられなければならない─とのユネスコの主旨は、
今次の大戦の経験によって、日本人が最も痛切に感ずるところ
のものである。
 そして特に、この戦争を拒否し、平和を盛りたてる運動が、
国家の指導者と少数の代表者に任せて置かれるべきでなく、
全国民の各々の心の中において、いま即時に始まらなければ
ならないと思う。これ、日本が公式にユネスコに参加出来る
に先立ち、この心の準備として、またおのずからなる要求と
して、ここにユネスコ協力会がつくられた理由がある。
われわれはかかる運動が、やがて日本全体のものになること
を期待している。さらにまた、われわれのこの努力に対し
て、平和を愛する世界の人々の同情と支援を期待してやま
ないものである。
1947(昭和22)年7月19日・仙台ユネスコ協力会 」

 物資不足で「紙」がなかった。上田は発足趣意書を障子紙に
墨で書いた。もう一通を英文に翻訳し、やはり障子紙で作った
封筒に入れ、パリのユネスコ本部宛に発送した。
 全てはここから始まった。同年11月、メキシコ市で開催
された第二回ユネスコ総会において、上田の起草したメッセージ
が、イギリスの生物学者にして事務局長のジュリアン・
ハックスレー卿によって読み上げられた。日本の地方都市・
仙台に誕生した世界初の民間ユネスコ運動組織は、このような
経緯によって世界から公認された。日本が国としてユネスコに
加盟するのは、これから4年後の1951(昭和26)年の事で
ある。

 今ユネスコと言えば、「世界遺産条約」の機関として知られ
ている。この条約は、1972(昭和47)年のユネスコ総会で
採択されたものである。ピラミッドや万里の長城など、人類の
文化遺産や、人類の責任において大自然を守ろうという主旨の
条約である。2001年5月現在、世界162カ国が条約に
加盟し、文化遺産529、自然遺産138、文化自然(複合)
遺産23が登録されている。
 日本では、聖徳太子ゆかりの「法隆寺地域の仏教建造物」、
原爆投下の第一目標だった「古都京都の文化財」、条約指定に
よって無意味な県道づくりの難からのがれた「青森・秋田・
白神山地のブナ原生林」、環境文化村づくりで自然と人間の
新しい関係性を目指す「屋久島・縄文杉」、ポーランドの
アウシュビッツ強制収容所と共に、人類最大の負の遺産とも
言うべき「原爆ドーム」。
 他に「古都・奈良の文化財」「栃木県・日光の社寺」
「岐阜・富山・白川郷五箇山の合掌造り集落」「兵庫・姫路城」
「広島・厳島神社」「沖縄・琉球王国のグスクと関連遺産群」
がある。

ペタしてね