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さて、政治家としては超有能。しかし、軍人としては孫権級で趣味は人をイビルこと、と言うかなりアレな性格な魏の文帝・曹丕が若くして崩御します。







で。孫権の悪い癖が再び出てきたようで正史にも『文帝(曹丕)崩御の報を聞き』とあり、はっきり喪につけこんだと書かれ、陸遜にしても







「隙なんかありませんからね~、出兵しても意味ありませんよ~」







と、言うのを無視して若い頃攻略した魏の荊州領である江夏の攻略に向かいます。が、旧劉表の配下で長年この地を守っている文聘。演義では劉備に『曹操に寝返って、地獄の劉表殿にどのツラ下げてまみえるつもりだ!』と怒鳴られた武将です



が、実は曹操が来ても徹底抗戦の構えを見せず、荊州が安定した頃、ようやく武将解除して出頭。その理由を聞くと「ここを守り切れなかったのが情けない」との事。







それを知った曹操からはその忠誠心を高く評価され、孫策時代から呉からの侵攻が絶えない江夏の太守に任命された。以降数十年間ここを死守してきた信任篤い(流石に直属の兵と入れ替えはやらされたが)名将だったりします。







よって孫権は例によって寡兵で守る相手に歯もたたず、撤退したところを追撃されて撤退から敗走に変更されました。







そんな役立たずの同盟国を横目にようやく夷陵の戦いと劉備の死の痛手から立ち直った諸葛亮が魏へ北伐を開始。孫権と違ってあっさり三郡攻略するなど優勢に進めますがどこぞの登山家が「そこに山がるから」と登ったのが原因で敗退、諸葛亮率いる本隊は撤退します。









で、呉はその頃何をしていたかと言えば…孫堅の時代から仕えた韓当…の息子である韓綜が例のよって呉の資料では「素行不良」とかで一族郎党、父の棺桶まで持っていて逃走と言うかなり大問題が発生します。







流石に毎度毎度、造反だか逃げられることに反省したのか孫権は『今後,部将の失策は三つあって始めてその責任を問う事にする。』と詔を発布・・・孫呉って蜀や魏では斬首確定の犯罪者クラスの武将が多いのはこのためか・・・といってもこの法案ができたからといっても脱走者は後を耐えませんが。







一方でこの「重臣またはその子息が脱走」とか言う蜀ではせいぜい一件ぐらいでほぼ皆無、魏でもさすがにそんなには発生しない、でも呉では割と日常茶飯事割とシャレにならない情勢を逆手にとり周魴と言う武将に魏への偽装内通を命じます。







これに対して魏では流石に「罠では?」と言うものもありましたが「重臣の子息が脱走」が珍しくない呉からのお誘いと周魴のお手紙大作戦や孫権の詰問の使者をやってこさせ断罪のために髪の毛を切ったなど白々しい芝居などを真に受けた対呉の総司令で揚州にいた曹休は荊州にいた司馬懿さんや豫州の軍事を任され「どう見ても罠だろう」と出兵に反対している賈逵達も巻き込んで総勢10万を率いて出陣します。







が、やっぱり罠で曹休が気が付いたときには陸遜・朱桓・全琮ら率いる呉軍に包囲されます。ここでおとなしく退却していればよかったものの「こちらの方が兵力は多いんだ!」と強気に進行しますが呉軍に袋叩きにあって壊滅。呉の事を骨の髄まで信じていなかった賈逵が救援に来てくれた(演義では合流、正史では陽動)お陰でかろうじて助かる始末。





敗軍の将曹休君は演義では賈逵に対して「君の言うとおりだったよ」と反省はしていたのですが正史では「お前が来るのが遅かったから負けたんだ!」と敗戦の関をなすりつけようとしております・・・がどこをどう見ても「曹休が負けた」としか載っていないので誰もそのような寝言は信じなかったようでして・・・結局彼は恥じたのかどうかかは知りませんが直後亡くなっております。







さて、魏に対して久々の大勝利を得た孫権はここで調子に乗ってある意味とんでもないことをしでかしますが・・・。





それは次回に




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