こんにちは、Satomiです
今日は思い出しながら
昔話を綴っていきたいと思います
私が留学していたのは1997年8月~1998年7月のこと
高校2年生の夏~高校3年生の夏でした
夢と希望だけを胸に抱いて飛び立ったことを覚えています
東京発だった私を見送りたいと言い張る両親に
「今から1年間アメリカで生活するんやから
名古屋から東京くらい一人で行ける」と言い張り
見送りは名古屋までにしてもらいました
ワクワクしていたし
友達や家族からいっぱい手紙をもらい
飛行機の中では全く時間を持て余すことはありませんでした
オハイオ州の片田舎へ行くための飛行機に乗り換えるため
シカゴ・オヘア空港で5時間待たなければなりませんでした
もともと好奇心旺盛な私は
自分の英語が通じないなんて思いもせず
「あっホストファミリーに
無事シカゴに着いたと連絡しよう」
と思いつきました
これが、この後私の顔から笑顔を消すことになるとは思いもせず…
公衆電話を探しに行きました
ほどなく見つかりました
コインを出して電話番号を押しましたピポパポ
ドキドキドキドキ・・・・
受話器の向こう側から英語が聞こえてきました
「ハロー?」
・・・・・・・・・・・
何か機械的な英語が聞こえてきます
なんだ、これ
何を言っているのか分からないので耳に集中しました
"…please insert more coins…"
コイン
そうかっ
これは日本でいう市外局番
お金が足りないんだっ
そう思った私はありったけのコインを公衆電話に入れました
それでも、まだ聞こえてくる同じ機械音声
もうお金もないしどうしていいか分からない
とりあえず受話器をおろしました
でも、お金が返ってきません
ショックで、カウンターに行ってCAさんに声をかけました
もちろん、思うように言いたいことは伝わりません
結局、お金も返ってこず…
電話もかけられず…
漠然と不安が私の頭の中によぎってきました
その時、閃きました
コレクトコールというものがあるじゃないかっ
勝気な私は再度チャレンジしましたっ
結果、撃沈
英語が分からず、つながっているのかどうかも分からず仕舞いでした
この時ですっ
私の頭の中から「不安」以外の言葉がすべて消え去りました
これからの1年ちゃんとやっていけるんだろうか・・・
電話1本かけることができないって・・・
お金も戻ってこなかった・・・
空港で働いている親切な(ハズの)CAさんにすら英語が通じない・・・
・・・・・・・・・・
どうしよぉ~
こんな「負の連鎖」が頭の中でグルグルグルグル
ついに、空港の片隅で、
涙があふれ出てきてしまいました
心配して寄ってきてくれたおじいさんがいたけど
そのおじいさんの言葉が分からない
分からない言葉になおさら不安になる
そんなこんなで、長い間、涙は止まりませんでした
その時、1通の手紙の存在を思い出しました
そうだっ父親から渡された手紙があった
名古屋駅で「最後の乗り換えも終えた後、最終の機内で読むように」と
手紙を渡されました
こんなに不安になって読むのだから、
約束破っても許してくれるだろうと
藁をもすがる気持ちで父からの手紙を読みました
そこには「Satomi君」と他人行儀で始まった文面がありました
そして…
いかに心配しながら、そして、
私の成長に期待して送り出したのかという
素直な親の気持ちが書かれていました
読み終わり、落ち着きを取り戻しました
そうだっ
私の留学は私一人のものではないんだっ
いっぱいの人が応援してくれているっ
まだ始まってもいないのに弱気でどうするっ
しっかりしなきゃっ
こうしてシカゴ空港での5時間を終え、オハイオ州へと向かったのでした
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