ゴジラは物語ではない。
無論エヴァでもなければウルトラマンでもない、それでも尚物語なのだから、比喩でいうならば暗喩ではなく直喩なのだ。いきなり内臓。従って痛みは逓減されず、痛みを痛みのまま描かれねばならず、省略を許さず、人類を守るという漠然としたテーマとは、そのままルールの遵守へと帰着する。
そもそも、テーマが重いのである。ファーストゴジラのインパクトは戦後間もない疎開経験者を想起させた。逃げ惑うひとびとが真に迫っていたからである。或いは核の脅威。水爆によって誕生したゴジラとオキシジェン・デストロイヤーによる解決。科学者の犠牲と加害者であるはずのゴジラもまた被害者であるというメッセージ性、皮肉。それもこれも、自分がただ戦争を知らない世代だったから感動したのではないかと思われてくる。震災を経て、シン・ゴジラを観た後では。
翻ってゴジラが直喩であるというのは説明の余地もなく災害を想起するからである。「ゴジラが生物である以上災害ではなく駆逐可能」というものの、津波の侵入経路そして放射性物質による汚染、シン・ゴジラに登場する被災映像のどれもが震災の既視感にあふれており、後はちょっとした想像力で補完できてしまうところになんというか、軽く絶望すらしてしまう。無力感に打たれるといっていい。
どう考えようが震災以前/以後というものが確実にあって、旧劇エヴァやナウシカ、まどかマギカが被災地の映像とオーヴァーラップしにくいというのは、アニメーションという暗喩であるのみならずやはり、以前/以後が確実にあるからだと思う。それは創る側にも観る側にも。ここで以前/以後ということにもうひとつ触れておくと、エヴァ以前/以後というのも確実にあって、あったがゆえエヴァは意図的に、それこそつげ作品の如く大量にオマージュされたが、庵野監督が今回のような実写を撮ったとき、まさか「踊る大走査線にしかみえないんだけど」という事態になることは予想できなかった。
松本人志のMHKを観て「若者はこれを観てラーメンズのパクリとか言い出すのでは」というオマージュと本家の逆転の危惧に似ている。誰もが石野卓球のように上手く返せるとは限らないのだ。とまれ、震災以降という体験とエヴァ以降という体験が、あくまでもこちら都合によってシン・ゴジラの観劇を妨げているというのは遺憾ではあるが仕方がない、庵野監督もゴジラも昨日突然生まれたわけではない。
経験が邪魔をする、とかつて小室哲哉はのちの妻に歌わせたがまさしくそういうわけで、私は庵野監督というのはガンダムに系譜されるような、大人の事情を描くのが上手い人物なのだと思っていた。それは宮崎駿だって上手いのだが、庵野監督は好んで扱うテーマなのだと。しかしながら実写を観てみると、アニメーションに於ける比喩もさることながら設定を通過して観るのとでは異なり、現実という各方面への気遣いもろもろ現行法に遺族感情もろもろもろと問題点が多過ぎて、とても山崎豊子的なおもしろさはなかった。超法規的措置があくまでも現実を越えてゆかないのだから当然で、「そのためのネルフですから」が今回はないわけだからカタルシスがなく、二時間かけてエヴァの第一話を観るような歯切れの悪さがあった。
一方私は最近、こどもが好きなため電車や重機の映像をよく観るのであるが、その観点からすると各乗物の活躍がいささか短か過ぎた。それら踏まえてシン・ゴジラの楽しめる要素を分類すると、
①テロップが表示される各種ジャンルの萌え
②山崎豊子的な大人の事情/人間ドラマ的なもの
③外的を迎撃するというバトル
④現場的なもの/マンパワー/日本ということ
だいたいこれらが並列に進行しているが、プロット的には一直線だといえる。そもそも誰に視点を置いてよいのかよくわからないところがあった。そして②についてはもう触れたので③を前述した経験値からみると、これは普通の物語である。ウルトラ警備隊がゼットンを迎撃したのは珍しいように思えるけれども、キングコングだってジュラシックパークだってきっと人間が迎撃しているのだろう。観てないから知らないが。
しかしこちらはゴジラに通常兵器が通用しないことなんてずっと以前から知っているのであり、それはこちらが悪いのだけれども、その事実が劇中で判明するまでに余りにも長い時間を要し、くり返されるエヴァ的な「通用しない」「やったか」「一番怖いのは人間」というのは、もうこれ本当にこちらが悪いのだが長くて、苦行だった。その苦行感についていま一歩考えてみた。
すると思ったのは、NHKがCGを駆使して放映する『都市直下地震、そのとき東京は』的なドキュメンタリー。あれに似ているなあ、と私は思った。シン・ゴジラで起きることはかつて起きたことと、これから起こり得ることを慎重にチョイスして描かれていて、それゆえ災害シュミレーションそのものでしかなく、俳優を起用した再現ドラマ感が甚だしくて、少なくとも――或いは罰当たりにも――私が求めていた爽快感なんてものは微塵もなかった。そう、すかっとしてはいけなかったのである。
これらのことは④に繋がってゆくが、その前に①について触れてみたい。①は当該クラスタにとっては不可避な喜びがある。ミリタリーも艦これも鉄っちゃんも役職萌えもみんながみんな、好きな当該ジャンルのテロップが出た瞬間――それがたとえ不謹慎だと思っていたとしても――テンションが上がってしまうのは仕方がない。私もN700系が走ってきたときなんだか喜んでしまった。しかし説明という配慮を越えた分量で表示されたとき――これではまるで自衛隊の見本市ではないか、と私は思った――配慮とは観客というよりも、関係各所へと向けられてはいまいか。そう。息苦しいほどの、配慮。
テロップの表示は以下に分類される。
・時間/場所
・乗物/製品名
・人名/役職
これだけ表示されると、いっそその小気味よさばかりに気持ちがいってしまい、京王も出してやれよ西武は、うちの区だって燃えている、みたいな感情になってくる。個人的には、
〝YRP野比〟
〝スーパーアンビュランス〟
〝小池百合子(本人)〟
辺りが欲しかったところだ。YRPは地味な駅で壊し甲斐がないかも知れないが、京急線だし字面がよい。スーパーアンビュランスはドクターイエローと双璧を成す子供好きのする乗物であり、特にラストのトミカのCMかとみまごう乗物ラッシュにあっては、もっと消防車両の活躍があってよかった。あと(仮名)というのがいたので本人がいてもよい。
ここで仮に、旧劇エヴァのアスカが踵落としで戦略自衛隊のヘリを撃墜するシーンに、同様のテロップ頻発があったとしたらどうだろう。画面がうるさい、のはともかくとして操縦している人間の死を意識することになる。というか、ひとの意識だ。どんな乗物にもひとが乗っており、命懸けなのだよということなのだが、余りにも多く表示されるのでよくわからなくなってくる。そして回天式にひとの搭乗していないものには(無人)と書かねばならない。もう、大変なのである。
そこで④である。現場的なものは新劇のヤシマ作戦などでもみんな好評で、私もアニメーションを通じて想像するだに現場でがんばっているひとびとへとめどない感謝があふれてくる。だが今回は実写であり、現実に働く人々がいるわけで、ここでもNHKのドキュメンタリー的な要素が含まれている。私はゴジラを観にきたはずであって、ドキュメンタリーを観にきたはずではなかったのだが、という気持ちになってくる。そして確認はできていないけれどもラストの重機、ホイールローダーはCAT製であったかどうか。
最後まで観た私は「もしかしてこの映画は、〝みよアメリカ、これが日本映画だ!〟というものであって、私なんかをターゲットにした映画ではなかったのでは」となってしまい、というのも、と結論は文字通り結びにしよう。ここで冒頭に戻ろう。
ゴジラはテーマからしてが直喩であり、それゆえ不鮮明に描く/省略することが許されない。
ひとの死を省略することが許されず、それは近く震災があり被災者があったためで、大人の事情を省略することができず、それは現行法や現在の日本があるからであり、テロップ表記が必要であり、何故ならそこに働く人が現実に存在しているからであって、そのような数々の現実というものと折りあいをつけてゆくこと、それがシン・ゴジラという映画に観たものだ。
同様のテーマはこれまでアニメーションでも数多く描かれてきたが、ゴジラであること、そして実写であることがそれらの禁則を強めた。
そのため映画の内容は先に述べた通り起きたこと、起こり得ることを逸脱しない。現実を扱う以上、逸脱は不謹慎であるからだ。人知を超えた存在はただゴジラのみであるが、これは災害の直喩であり容易に現実と置換可能であって、そこにヒト型決戦兵器やウルトラ星からの使者が降臨する、なんていう絵空事は現実への冒涜となってしまう。だからルールを遵守せねばならない。
だから、である。楽しむ余地なんて本当はないのだ。如何にテロップが表記されて物語の演出めいてみても本来の意図は異なる。楽しんでなどいけないことをテーマにしているのだから。そして大人の事情を執拗なまでに描き、登場するひとつびとつにテロップを表記して、登場し得るだけの乗物を、登場させた。
―――許されない。
原爆投下された過去を描かないことは許されない。
属国ニッポンを描かないことは許されない。
震災を想起させないことは許されない。
放射能を扱わないのは許されない。
すべて現実なんだ、だからこそ。
だからこそ、「わかりすぎるほどわかってるよ」と感想してしまう自分がいるのである。震災の恐怖や核の問題を忘れることができるだろうか? 少なくとも私はできないし、これからもずっと考えていかねばならない、と思っている。シン・ゴジラで描かれる問題がファーストゴジラの時代から何ら変わらないこと、或いは例えば多くの手順を経てやっと開始されたゴジラ迎撃作戦、悠々と表記されるテロップの兵器群とは基本的に、人間を殺傷するため開発されたものである、というような多くの皮肉。核とは抑止力であるだなんて最大の。
しかし少なくとも震災以降、この映画で提起された問題について考えなかったひとがどれだけいるだろう。少なくとも私は考えずにはいられなかったし、この映画を観て「考える契機になった」なんて日本人がいたら、私はキャラではないけれども「どうだろう」と思ってしまう。だからこそ、唯一の原爆投下国であり震災を経たニッポンを〝海外のひとが考える契機〟になれば、というのなら得心がゆくのである。
そのとき海外のひとにとり、私がファーストゴジラを観たときのようなインパクトがあることは想像できる。それは絶対にエヴァやウルトラマンでは成し得ないことだから。
もし仮にそれが目的だとすれば、いやそうでなくとも関係各所よく配慮してまとめあげたな、すごいな庵野監督仕事できるな、という感は間違いがなくて、映画を観るまえにツイッターで読んだおたくが言ったという「さてと、みせてもらいますかな。庵野の実力とやら」というのが創作であったとしても好きなのだが、果たして実力とやらというのは伝わったのではないかと思う。
まあ私は暗喩とやらのほうが好きなのだが。