佐藤/ダイヤモンドの戦士 [文学フリマ] | 山本清風のリハビログ
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■『ダイヤモンドの戦士』を読むと珈琲が飲みたくなる
 タイムトラベルは可能か、と問うと物理学者は「非可逆的な過去に遡るのは不可能だろう、フィードバックを生じるからだ。しかし、未来に向けては可能かも知れない」と答える。フレンチプレスされた珈琲をふたりで分けあいながら、物理学者はこのように話を続ける。

「方法はふたつある。ひとつは非常に強い重力状態を維持すること。きみ、相対性理論を知っているね?」「アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンですね?」「違うよ。空中にこうして水平に、ネットを渡したとするね? その上にバレーボールやテニスボールを置いてみよう、それぞれ重さの分だけネットがたわんで沈むだろう? これが質量であり、これらを太陽や地球だと思ってほしい」

「どうしても、とおっしゃるのなら」

 少年は不機嫌そうに珈琲茶碗の端をかじった。「この、ネットのたわみの分だけ空間が歪んでいると考えてみてご覧。そして、その分だけ時間の流れはゆっくりになるんだ。ボールが大きければ大きいほど時間の流れはひき伸ばされる、遅くなる。つまり我々の生きる世界よりも重い重力場にある人間は、我々に比べて〝遅い時間を生きている、未来にいける〟というわけだ」

「その調子で説明すると珈琲が冷めます」
 物理学者は毎秒温度の失われゆく珈琲にちょん、舌先をつけると要約を始めた。学者は猫舌だった。

 それは宇宙で一番重力が強いとされるブラックホールを用いる方法。これはブラックホールに飲みこまれぬよう高速のロケットを開発し、きわきわのすれすれをひたすらくるぐる廻る。ブラックホールの近くは非常に強い重力が作用するため地球上よりも時間の経過が遅く、その状態が続けば続くだけ地球に戻ったときには時間が進んでいる、つまり未来にゆくことができるというわけだった。

「いまひとつはもっと、最もシンプルな方法で〝速く移動する〟ということだ。速度の限界である光の早さに近似すればするだけ、やはり時間は遅くなる。さて光速移動の具体的方法を思考実験してみよう。まずは高速で進むロケットを開発する。そして宇宙へ向けてひたすら飛べばいい。速度が上がり光速に近づけば近づいただけ、地球上での時間は遅くなる。それは八十年で宇宙の果てまでゆける速度だ。考えてもみたまえ、ロケットで生まれた地球人の子供は宇宙の果てをみることができるのだよ、きみ」

 物理学者の話を聴いていた女給は「ふんふん」「へえー」とまさしく一喜一憂目を輝かせて耳を傾けていたが、その視線の先には宇宙の果てがあり、或いはブラックホールの果てなき暗黒があって、つまりみえてはおらず、心ここにあらず、それでもはんなりとオートメーションに接客業をこなした。物理学者は熱弁をふるいつつ幾度も女給の膝の上に手を置いたが、その都度自然にその手を避けられているうち、酩酊してしまった。

 蝶に花弁にとひらはら騒がしくカフェーの灯は揺れて、その夜、酩酊の果てに物理学者は全裸中年男性となった。



■アダマンタイマイ 倒し方
 物理学者の意図したのは「時間とは非可逆であり、SFも科学も未来に向かってしか希望しない」ということであっただろう。私が本作を読んで思ったのもまさしくそういう前向きなメッセージだった。現実がサイエンスフィクションに追いついてしまう出来事を経験した私たちはふと、物語の前で立ち止まる。物語にまだできることがあるのだろうか、と。

 本作はしたがって、悲劇への回答でありながら〝物語の可能性〟への回答でもある。そのメッセージを伝えんがため物語に課せられた悲劇とは、作者にとり一等避けたい悲劇であったに違いない。私小説だけが自身を削って文学している、なんていうのは傲りである。著者は作中に於いて悲劇と対峙し、希望を描いた。物語に悲劇を閉じこめた。その推進力が、筆に表れている。

 クライマックスの疾走感はまさに振り落とされんばかりだ。天地左右の判然とせぬなかでとにかく未来を目指して駆け抜けてゆく。読後、呆然としてしまうほどに。そして然るのち万雷の拍手が待っている。

 プロットと前ふりが収斂し駆け抜けてゆくクライマックスは、私に物理学者の挿話を思いださせる。まさに未来へと突き進むタイムトラベルのロケットは、無論初手から最高速度に達するわけではない、母なる地球から離れながら、やがて時間を置き去りにしてゆくのである。物理学的に不可能な過去へのタイムトラベル、すなわち「過去を変えられるはずの物語」にも関わらず、「物語で未来を描くこと」そして「未来を変えてゆくこと」を体現した著者は、物語として正しいとされていても簡単には書けぬそれを、気どることもなしに実現した。

 さて余談だが、著者の言葉あそびのセンスが好きである。前作の『アイデアルワールド』は「愛である世界」にかかっているだろうし、恥ずかしながら〝アイデアル〟を知らなかった私は園芸店でその苗をみつけたとき「ああ、そういうことか」と膝を打った。隣にいた細君にそれを説明するのは、割と骨の折れる作業である。

 前作はそのように、アイデアルの語感に詩情が刺戟されたことから始まっているだろうし、本作も表紙に謳われているように「ディア・マイ・アダマンタイト(断固・負けない)」の響きを〝ダイヤモンド〟に見いだして着想したのだろうと想像する。板尾創路が「なんで脱獄王ってそない脱獄し続けるんやろなあ」という問いから映画を着想したと思われるように、想像力の飛躍を思わせて興味ぶかい。是非次回は『IPPONグランプリ』に出場してバカリズムの独走を止めてほしい。