酒をあおりながら『さんかれあ』と『黄昏乙女』を交互に観ると癒し効果があることを発見 | 山本清風のリハビログ
 酒をあおりながら『さんかれあ』と『黄昏乙女』を交互に観ると癒し効果があることを発見、することに私が至ったのはつまり、こういうことだ。ひとり酒を呑むことの少ない自分は当初、飲酒することで自己と向きあおうとしたが、どうして平素ひとりで酒を呑まぬかというと酩酊によってぶれてしまい、自己対峙がままならぬから。というわけでアニメーションを観て大いに現実逃避してしまった。



 ―――でも、この時まだ俺は知らなかったんだ。まさか本当に、俺が総理大臣になるなんて……。



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 二次元の第一話によくあるフォーマット、サンプルと成り得る〝ひき〟を披露したところでそれがもし偽りあり、だったとすれば良くも悪くも信用は失墜するだろう。そして、これは後者のパターンである。



 さて、『黄昏乙女×アムネジア』は第一話を観終えて不安になった。『うる星やつら』以降連なった「なんか知らんが主人公がその気もないのにもてもて」という男性一方向のフォーマット、軽薄さに思わず、古っ。ガンガンは『パッパラ隊』からなにも変わっていないのでは、という不安に苛まれて不意に悪魔が囁いた。次に最新の第十話を観てしまったのである。



 かつて小林よしのりは『東大一直線』でギャグ漫画の金字塔を打ち立てた。それはまさしくギャグという名の日常を積み上げる行為だった。そしてその豪華絢爛たる金字塔を、続く『東大快進撃』で自ら打ち崩した。魔界塔士も踏破ならぬ数年分の日常は、これ以上にない衝撃的なかたちでしかも、作者の手によって破砕された。最高の爆破オチにトレンディードラマ全盛の当時、最終回にして人気アンケート一位を獲得した事実が私を、『宮本から君へ』と明確に線引きさせている。



 前フリとしての日常が軽薄であればあるほど、シリアスへの転向は衝撃的になる。その意味で『黄昏乙女』は作者に悪意を覚えるほどの温度差を感じる。第一話から複線された柔らかい要素が一斉に尖鋭を帯びるとき、そこには都市伝説の恐怖と感動すら生じるのである。主人公視点という演出はエロゲーめいていて良い。一部のひとびとのみにとって、懐かしい場所。あの衝撃的なシリアス展開も、思えばエロゲーの領分である。エロゲーとはエロいから十八禁というのもあるが、規制を越えた悲壮を描くときにも用いられることを忘れてはならない。



 筆が横滑りするけれども昔友人と『苺ましまろ』の最終回はどうなるのか、と深夜に電話会議した。「いきなり全員死ぬとか、あの雰囲気ならありそうだよな」「誰かが観ている夢で、お姉ちゃんとかかな。妹を含めた四人の小学生は本当は存在していない、とかな」というのも、エンディングテーマがストロベリーフィールズで矢鱈深夜にやっていたので、そもそも放送自体が幻覚っぽかったからだ。



 翻って『黄昏乙女』はそのようなわけで、ひじょうに納得した。『絶叫学級』黄泉ちゃんとのコラボレーションが待たれる。



 いま一方の『さんかれあ』だが、これも実に軽薄なのである。少々急ぎ足で登場人物を紹介、それにしても二次元の三人組は現実では決して友達にならないような組み合わせが実現している。教室というヒエラルキーの中の下、絶対にもてない三人組のなかにもてる役割の男がいて、女性関連の複線を叫び散らす。これは羅川真里茂『いつ天』の時代からなにも変わっていない。いや、それ以前から。八宝菜的祖父やしたたかすぎるコスプレ妹、巨乳の幼馴染みなど終わらぬ鉄槌に思わず、反吐がでそうになる。



 サンカ、古文書、寺社仏閣、これは『黄昏乙女』もそうだが民俗学的考証とそして、二頭身アイコンとしての祖父。これら別冊マガジン連載とは思えぬ高橋留美子的影響あるね。と、分析は水を掛けると猫になっちゃう不思議な体質、のシャンプーさん。またも私は思ってしまう。古っ。



 だが、いずれも少年マンガ的作法と思えば正統派過ぎるほどに正統であり、反吐のでそうになる二次元的フォーマットも、その合間を縫って喰らってしまうのは結句、萌えの素因である。というか、反吐なんか吐いていたらアニメーションなど観れない。その踏み絵で外敵を退いているからこそ、二次元には癒やしがあるのだから。



 散華さんの可憐、お嬢、黒髪、色白、キャラクターデザイン、隙。画力の最大限をヒロインに与え、それ以外を平凡に描くというのは昨今の風潮かも知れないし、私が知らないだけで多数あるのかも知れない。ひとつだけ云えるのはライバルの不在であり、主人公とヒロインだけを賑やかす世界とはもしかすると、セカイ系が進行しているのかも知れない。雲行きが怪しくなってきたので、いま暫くいいところをみつけてゆこう。ヨータのいいとこ、またひとつみーっけ(電影少女)。



 ビデオガールを夢みてデッキに齧りついていた私の眼前にはしかし、ゾンビが多数蠢いていた。『サンゲリア』『死霊のえじき』そしてゾンビではないけれども『悪魔のいけにえ』など、うきうきしてしまうほどゾンビ/ホラー映画のオマージュが多く、マカロニゾンビの巨匠ルチオ・フルチは私も大好きな監督で思わずるんるんしてしまう。ドリルでこめかみを穿たれるジャケットはしかしゾンビに依って殺害されたのではなく、ただの殺人事件である。好事家にあてて選ばれた題材であるだけに考証も高い強度で、ここはつい無条件に絶賛してしまう。とにかく『地獄の門』だけでも観たほうがよい。



 そして、売れるつくりになっている。廃ボーリング場、井戸、アイコンの祖父、アイコンの猫、サービス過剰の妹、サービス過剰の幼馴染、サービス過剰のヒロインに劣情の親友と、これでもかというほどにオブジェが詰めこまれていて息苦しくなる。もっとまっすぐにヒロインの美しさを描くことはできなかったのか、というのは第二話の途中までしか観ていない私だから思ってしまうのだろう。そのうち、そんなことも思いだせなくなるくらいの絶望が待っているに違いないのだ。複線は山とある。



 これは『黄昏乙女』もそうだが、少女漫画で云えば白泉社系から講談社系にかけて、つまりトラウマからホラーへ渡っている作品そのいずれもが、やはり例外なく『魔法少女まどか☆マギカ』の影響を免れ得ていない。それは商品としても作品としても当然ではあるが、寺山ばりのアングラ演出への再評価や醜い人間の内面、エンドカードからケルト風の劇伴まで『魔法少女まどか☆マギカ』の大きさを再確認した。



 そして、確認してみよう。ビデオガールを夢みて現在はゾンビ、のアニメーションを観ている私の瞳のその下部を、一条の白い光が流れる。これは天体ショーでもなんでもなくて、「いまDVDを購入すると初回特典として、ヒロインが劇中で撮られた写真がついてくるお☆」みたいな内容だったと思うのだが、ネタバレになるので詳細は置くが、それはヒロインにとってとっても心の傷になっている枢軸の出来事だったと思うのだが…。



 やはり、糞アニメかも知れない。そもそも私は、飼い猫を蘇生(これは第一話の内容で掴みだと思うからネタバレさせていただく)させようというのが、自分もまた猫を飼う身となったいまとしては業腹なのである。そしてヒロインも無垢というよりはサイコパスの趣きで、飼い猫の死体を無邪気に突きながら「動物触ってみたかった」みたいな、ここだけ切り抜くと非常に語弊があるがけれども無神経なことをする。そう、このアニメは軽薄というよりも、無神経でデリカシーがなくて糞野郎の臭いがするのである。



 これは批判ではない。ただ思うことは、かつてゾンビとは

   守って…守って…
   守って、守って、守って、守って
   守って守って守って守って守って守って
   守り抜くつもりだったのに果たせなかった…
   これから先、君が 動き回る屍となって
   ぎくしゃくと夜を歩いたり
   まるで蜘蛛のように地面を這いずる姿を見るのは
   あまりに忍びない
   ごめんなさい、許してください!
   ごめんなさい! ごめんなさい!
   ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!
   許してください…
   もし願いが叶うならば…!



 『リテイク』、筋肉少女帯である。大槻ケンヂ考案のステーシーは小説版や『再殺部隊』でも描かれているように、「愛する人の姿かたちが同じまま、まったく異なるものへ変わってしまう」悲しみがあった。つまり少なくとも私の思春期に於いてゾンビとは、蘇生の物語はかつて沢山あったが、自同律の乱された愛する存在として考えたとき果たして可不可はどうなろうか。考えてみたら普通に嫌だなあ。自分がゾンビになるのも嫌だなあ。



 たしかにダークヒーローはいつの時代も存在するし、闇に堕す美学というのもある。だが考えてみると、エヴァが発生したあの時代、自意識とは信じられないくらいに高騰していたのだ。だが匿名の時代がやってきて、愛する存在がゾンビでもいい周期にまた入ったのだ。「ゾンビでもいいから、もう一度こいつの動くところが見てみたいんだ」主人公も云っているが、あの時代に生きた私としては反吐のでそうなエゴである。没個性、匿名、働いたら負け、なんて云いながら特大の自意識を抱えてやがる。なんだ、ただの神か。



 ゾンビでもいい、ってゾンビがみんな『死霊のえじき』のバブみたいだと思ったら大間違いで、その世間知らずとはたしかに主人公の若さを描いているかも知れず、数々の無神経がどのような複線を回収し、或いは『黄昏乙女』とは逆行してまさかの『日常』クラスの笑いと癒しを提供してくれるかも知れないから、もうお気づきかも知れないが、今後も熱心に鑑賞してゆく所存である。



 そもそもホラーであれば、まさしく『日常』とか『サザエさん』がたった一回のカオス回によってとり返しのつかないことになるほうが、前フリとして正しいのだからきっと結末は案外ハッピーエンドなんだろう。それか泣かせたりするんだろう。私としてはそろそろ『よつばと!』が大変なことになって全世代的に甚大なる衝撃を与える、とかそういうのがホラーなのであってそういえば、ホラー映画『ビデオドローム』は『電影少女』の元ネタじゃないかと思いつつ。



 そのようなわけで細君が帰宅する頃には、私は前後不覚に酩酊して無性に飼い猫が愛しくてたまらず「なるほど、こういう効果があの作品にはあったか」と思いながら畳みに寝そべり猫の鼻を撫でていると、次に気づいた瞬間にはリビングのソファーに横たわっており、向かい合うテーブルの上では私のノートパソコンが発光していた。「慰めてあげる」と少女はでてこなかったその代わりといってはなんだが、翌日の仕事がほんとに糞だった。