愛宕神社というの総本社は京都にあります。今回ご紹介するのは、先日訪れた東京都港区の愛宕にある小さな山、愛宕山の上に鎮座する愛宕神社のお話です。





鎮座する場所はご覧のように、芝公園に近接する丘陵地で、まさに東京の都心部。

この神社が創建されたのが1603年といえば、日本史を多少ご存知ならピンとくるはず。
1603年は、徳川の江戸幕府が開闢した年。



徳川家と深い関係があります。
徳川家康が命じて火産霊命(ほむすびのみこと)を主祭神として設置しているのです。この神様、調べますと火の神・防火の神でございます。後に火事は江戸の華なんて言われるわけですが、江戸の町を開くときから防火を意識していたんですね。
ちなみに江戸の大火で本殿は焼失した歴史あり、明治になって建て直したが関東大震災そして東京大空襲でそのたびに燃えたとか……。いまのご本殿を含めたお社は昭和33年に建てられたようです。

あれ? 防火の神様が祀られているはずだが(^^;)




さてここの石段、斜度38度(注意、38%でない!)と急勾配で有名です。わたくし、ロード乗りなのでヒルクライムするとして勾配率は何%かなと換算すると

「78%!!!」 オー、クレイジー(笑)


この石段には逸話があります。三代将軍家光が増上寺からの帰りに愛宕山の下に差し掛かりました。愛宕山は梅の名所。「梅が欲しいから、誰か馬で駆け上がって取って来い!」と家来たちに命じたそうで。
でも、こんな絶壁の石段を馬で登るものは誰もおらず。
そんな中、家光も他の家来も名を知らぬ何者かが、パカッパカッと石段を馬で駆け上がり、見事手折りした梅を家光公に献上したのです。





曲垣平九郎(まがき へいくろう)という、その無名の馬乗りは、これをきっかけに馬術の達人として全国にその名を馳せることになったのです。

そのことにちなみ、この石段は






出世の石段、といわれるようになりました。





ごらんのように手折りの梅は「将軍梅」と表され境内にあります。

馬でこの急勾配の石段を上り下りするというのは明治時代以降に3回ほどあるらしいです。



こんなところ、よく馬で登り降りしますね(*_*)

1925年に陸軍参謀本部馬丁の岩木氏が挑戦した際、東京放送局(現NHK)のラジオで日本初の生中継で放送されました。そして、実はその放送局そのものがこの愛宕山にあったのです。




その放送局は、現在はNHK放送博物館となっています。神社に相対して建っていました。



さて、最後にこの愛宕山と幕末歴史のお話。




ご覧のように、山頂はちょっとした高台になります。標高は25.7m。現代なら8階建てのビルくらいと大したことありませんが、東京23区の自然地形の「山」と言われる場所では、最も高い場所なのです! 意外ですね。
江戸時代では、当然、江戸の街並みを見渡せる所だったわけです。

あの、桜田門外の変で井伊直弼を襲撃したメインメンバーは水戸藩浪士。実は彼らが襲撃前に集まったのが、この愛宕山です。そのため





ご覧のように、石碑が境内にあります。


そして、いよいよ江戸幕府が終焉を迎えようとしていた時、





勝海舟と西郷隆盛がここで会い江戸の街を見渡したという話があり、それが江戸城無血開城に繋がったといわれています。
徳川幕府に引導を渡しその後の明治維新に繋がるきっかけとなった桜田門外の変と、その幕府の中枢にいて江戸が戦火で燃えることを防ぐため勝海舟が尽力したという二つの出来事と関わっている、それがこの愛宕山・愛宕神社なんですね。

そうみると、江戸の街が燃えることを防いでくれたともいえるわけで、愛宕神社の防火の神様は頑張ってくれたのでしょうね(^0^)


以上、歴史的逸話が思ったより沢山あった愛宕神社のお話でしたm(__)m