奇兵隊において高杉晋作に厚き信頼を得ていた人物、それが福田侠平。

山口市の後河原の生まれで、大内御堀に居宅がありました。

戊辰戦争の後、下関で酒を飲みまくっていて、突然亡くなったそうですので、死因は出血性脳卒中でしょうね……。



萩往還に標示あり山根観音堂へ向かい進むと




観音堂に到着。このお堂は先日ブログで紹介したの氷上山興隆寺にあったものを移設してます。


で、ここにこのような説明板が……



丁寧に地図があります♪ 今まで訪れたところで、これ程訪問者を気遣った説明板はありません(笑) 誉めてあげましょう(笑)



地図に従い、このとなりのトトロに出てきそうな木のトンネルを通り




コンクリの登り坂の上に



ありました! 福田侠平の墓に到着♪

晋作より10歳年上の彼は、奇兵隊における頼れるオッサンだったようです。そして晋作とも信頼厚く繋がっていました。四境戦争では北九州の小倉口の戦いで活躍しています♪

戊辰戦争の後に下関で亡くなりましたが、晋作の傍らに葬ることを希望されたのです。ですから東行庵に埋葬されています。

一方、同志が、彼の遺髪を棲んでいた山口は大内氷上の地に葬りたいとのことで、このような墓が創られました。


この墓は、暫く見失われていましたが、平成9年に漸く発見されました。(ごく最近です)


彼が、福田侠平がいたから奇兵隊は纏まり維持できたという見方があります。



現地のかなり詳細な説明板です。侠平は、あの野村望東尼とも交流があったと書いてありました。晋作の「面白きこともなき世を~」で詩を返した福岡の女流歌人ですね。(平尾山荘に棲んでいた方)



高杉晋作は奇兵隊を率いた偉大な革命家ですが、その背景に周布政之助が、そしてこの福田侠平が支えたり引き継いでいたということを知っておくことは大切です。



以上、晋作と共に奇兵隊を率いた福田侠平の遺髪墓が山口市の大内御堀にあるという話でしたm(__)m






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