北九州市小倉北区の日明(ひあがり)辺りの板櫃川(いたびつがわ)に架かる橋





その名は、極楽橋


実は明治までは、地獄橋と言われていました。なぜならそこを渡り行きつく処は……




江戸時代に小倉藩は小笠原公が藩主として君臨。六代藩主忠固(ただかた)は、藩主就任と共に儒学者上原与一を侍講として採用。


1811年に幕府命の朝鮮使節応接を任務を遂行し、忠固は色気が出たのか「僕チン幕府老中職になりたい!」と……


筆頭家老の小笠原出雲は反対します。選挙活動に多額の運動資金(まあ賄賂ですな)がいるため藩財政をひっ迫させるからですね。しかし他の家老は賛成(>_<) 結局幕閣に多額の金を撒くこととなります。当然、小倉藩は貧乏になっていきます。




ここで藩主の太鼓持ちの主流派家臣団と儒学者上原与一を中心とする反主流派家臣団が二派に分かれて争うことになります。小倉藩の内部分裂です。


反主流派約400人は1814年に脱国し隣の福岡藩黒崎に入ります。黒崎は現在は北九州市の一部ですが、小倉藩でなく福岡藩なんですよ。肥後藩の細川家に訴えるため福岡藩領を通らせてくれということでした。


この混乱のことを、黒崎に入った反主流派を「黒組」、小倉城に残った主流派を「城=白組」と呼び、通称「白黒騒動」と言いいます。事態の収拾のため、小笠原出雲を蟄居させ反主流派を復権させることとなり、上原ら黒組は小倉藩に戻ります。


でも翌1815年に幕府がこのことを知り処罰!(藩主も白組も黒組も処罰ですが、この時はおとりつぶしなく、解職・蟄居程度でした)


収束したかにみえました。しかーし、1818年からまた白組対黒組の仁義なき戦いが始まり、1820年に完全復権した白組が黒組をことごとく処罰!このときは獄門や打ち首等の厳しい処分でした。




黒組代表の一人儒学者上原与一は足立山の狼煙騒動の犯人として捕まったのです。


地獄橋を通ると、この世には戻れません。


当時の日明(ひあがり)は干上村と呼ばれ海沿いの村でした。そしてここには小倉藩の処刑場があったのです。





この旧き道を通ると墓地がありますが、そこには


現在このような慰霊碑があります。小倉藩処刑場の鎮魂碑です。

地獄橋を渡ってここに連れて来られた黒組の皆さんは哀れ処刑……


足立山で狼煙を上げた儒学者は、火刑に処せられたそうです。火をたてたから火あぶりですか。残酷なもんです。




今は埋め立てられ浜辺はありません。墓地となり、鉄道が走り、工場が建ち並んでいます。

しかし日明のこのあたりは明治の始め迄は海辺の処刑場だったんです。以上、ちょっと哀しい小倉藩の処刑場跡地の話でした。