主はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」
すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」
主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
ここを見て行こうと思います それ自身の聖書箇所のみではなくほかの聖書箇所も参照にしてみて行きます(2ペテロ1:20)
主はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」
神様の心にかなった 名指しで選び出した 事が書かれています、ここでも神様に決定権があるのです。
しかし、ノアは、主の心にかなっていた。
以下の聖書箇所もそうです。
詩篇:33:12
幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。
主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。セラ
幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
ということで、神様がお選びになる事 我々からではなく、神様がお選びになるというポイントがわかりました。
すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」
主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
ここも先ほどと似ています、それ自身のみではなく他の聖書箇所を参照
ローマ9:13
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。
こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
エサウの事が書かれています、エサウとは長子の権利を売ったクリスチャンの型であり、父から(天の父のたとえ)の相続を受けないクリスチャンの型で、長子たちの教会にいけない人の型です。
しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、
なぜ長子ではなくなるのか?
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
これが一つの理由です、さらにこう書かれています。
その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
2: 9
不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
何で世界で起こっているしるしや奇跡リバイバル!などなどのムーブメントにのるのか?受け容れるのか霊を受け後ろに倒れるのか?(悪魔礼拝者も同じ霊現象を行っている)
http://www.youtube.com/watch?v=EKQmX4YG30c&nofeather=True
なぜ長い時間あらゆる偽りの力、しるし、不思議 に入りびたりなのだろう?
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
真理の愛を信じなかった人達への 神様の力によってなのです、今回の箇所と似ています。
主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
パロも主によって立てられました、しかし結果は皆さんご存知の通りです
ローマ9:13
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。
こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
以下の箇所でも主のあわれみの事が書かれています。
わたしが諸国の民の間にわたしの栄光を現わすとき、諸国の民はみな、わたしが行なうわたしのさばきと、わたしが彼らに置くわたしの手とを見る。
その日の後、イスラエルの家は、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。
諸国の民は、イスラエルの家が、わたしに不信の罪を犯したために咎を得て捕え移されたこと、それから、わたしが彼らにわたしの顔を隠し、彼らを敵の手に渡したので、彼らがみな剣に倒れたことを知ろう。
わたしは、彼らの汚れとそむきの罪に応じて彼らを罰し、わたしの顔を彼らに隠した。
39:25
それゆえ、神である主はこう仰せられる。今わたしはヤコブの捕われ人を帰らせ、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わたしの聖なる名のための熱心による。
彼らは、自分たちの地に安心して住み、彼らを脅かす者がいなくなるとき、わたしに逆らった自分たちの恥とすべての不信の罪との責めを負おう。
エレミヤ書15: 4
わたしは彼らを、地のすべての王国のおののきとする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行なったことのためである。
エルサレムよ。いったい、だれがおまえをあわれもう。だれがおまえのために嘆こう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねよう。
おまえがわたしを捨てたのだ、――主の御告げ。――おまえはわたしに背を向けた。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに飽いた。
というわけで、主を恐れていましょう。
父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。