運命というものは、なかなか精神面だけでは変わらないだろうと考えた
宿命というものは、生まれる前から決まっているだろうが
運命というのは行動次第で少しずつ変えることができる
私は運命というものが、行動の徳と、精神の徳の2つから織りなされると考える
いや、これは私を見ていて思うだけで
勝手な判断なのだがね
精神を変えるにはどうしても現実の行動としての働きかけというのが必須になってくる。
有言実行の事だ。
他人から与えられる行動、自分から動く行動、どちらにしても、精神面への影響というのはまず他人からでも自分からでも、行動という動きから変化をもたらされるだろう。
私は真剣に考えていた
本能を無視できるかと
親から虐待される子を更に自分が虐待できるか
しなければ自分が殺されるとして、それを本能が許すか?といったら
許さず殺される方に実際はなるだろう
まあ、自分が殺される判断は本能がしたとして、自我は殺してくる相手をどう判断して表面上の行動をとるかは知らんが。
先祖は私に言う
人とは自我を操れないのだと
現状があれば、同じ状況にならないように行動を変えるのが普通であるが
人はそれをする事が物凄い困難なのだという。
自我を操る本心が表に立っているわけではないからと。
私は二〇年ほど考えた
なぜ虐められる子はやり返さないのだろう?
その心はどんな状態だろう?理解ができん
ああ、自分がなってみるか、と
大体こんなもんか、というものは理解したにせよ。
となると、人の本性はそうそう変わるものではない。
その精神の構造から、精神面からの現実への行動の変化は8割型難しいと考えられる。
となれば、人間の基礎本能である、慣れの習慣というのを利用して、行動を毎日繰り返し癖付けることで、精神面へも癖として影響し、運命への変化というものをつける方が簡単なのである。
例えば、子供の頃から何年も礼拝をしている人間はそれが当たり前の習慣化と精神面への影響で、神様を信じて育つものは、他人からいないと教わったとしても、行動が習慣化している以上それからの精神面への影響がでかいということだ。
自分が、損をして、痛い目をみて、自由を奪われて、心がボロボロになるところまでいけば、そこで初めて心の影響が強くなって行動への働きかけというのを変更する。
しかし、リスクとして心は耐える機能と、傷に気付きにくい面が、人間が太古から生存してきた生存能力が影響してついている。
だから途中で止まれないのだ。
そして人間は自分より強い者に従う習性がある。
崇めるモノが、崩れない限り信仰心は続くだろう。
ああ、宗教の話をする気はなかったが
例題として使いやすかった(笑)
悪い事が最後に悪く出るかは生きてみんとわからんことだが。
運命というのは、本能や本心がある限り、日々の積み重ねた実績とその時間と結果がないと
そうそう自分のモノには対抗できないということだ。
悪い意味では言ってないがね。