教えも塩タンならびに、校歌斉唱 | 『真理と道理・人と神』

『真理と道理・人と神』

あの世とこの世のことから人の心や魂や家系の先祖、そこからの道理と常識の大切さを書いています
また先祖や神からの気付きや言いたいこと乗せてます

昨日突然の焼き肉に誘われて、二回目のご飯をガッツリ食うて一キロ太った本日ですが
タンとカルビは旨かったです。


それが、えーと、なんやっけ
えーーーーーーーーーーーと
高山寺でもない、高円寺でもない、真如円でもない、あ~真如苑か?


まーそこらへんに入っておる人と話よって、釈迦の教えをその弟子たちは皆解釈が違ってはると
それはなんやろうなあ~と言いよったけん


そんなもんはねえ
車を家にぶつけた時に、ショックの余りにスローモーションになって口が開いてたたずむ人と


あ~やったかあ、まあええわ。


で終わる感覚の違いと一緒よ。って言うたら



あーーーーーーーー❗なるほど❗


といいよった


うちらー11回車ぶつけちょるし、追突もしたし、縁石と仲良くなった事もあったし、タイヤも釘と付き合うて破裂までしちょったでーというたことよ。


ぶつけたこともないもんがぶつけたらアッポにでもなるけど、何回もぶつけたもんは金出してさっさと直さないかんと前向きに思うもんやけん
その失敗の数でお経から教えを聞いても取り方が違うがやろうというたことよ。


初めてぶつけたら人生とはこういうことがあるから注意しなければと悟ったとして


何回もぶつけていれば、ぶつける時にはぶつけるがやけんしかたがないと、ぶつけた後まで考えて対処法を考えて乗りよるけんね。


そこらの違いでお経もそういう感覚から捉え方が違ってくるがやけど、何が悪いとかええとかやなくて、段階の話しやけんね。


人には人の感覚があるがやけん、いろんな解釈が出ればええがよ



やけんど、最終的に言えることは
釈迦の教えとは、道理道徳と平常心と常識で生きなさいよって話よ。


宗教で神様を自分に降ろして力を得る事が目的ではなくてね、我々にしたらなぜ道徳道徳で生きなければならないかと包み隠しなく真理というあの世も含めた全体性から話しているのが宗教よ。


と、私は宗教というものをこう思うているのだけど。
宗教はどうなのかね?


神様の力を自分に降ろすということは、宗教の目的ではないよ
その力にはそれの使える範囲の責任が生じて重い人生になってしまって、人としての当たり前の幸せというものは手に入らなくなるからね


何かを降ろすとか乗ってもらうというよりも、生まれた頃から魂に引っ付いておる、同行二人の一人である内在神の仏を、発露する方が良いのよ。


それが道理道徳、人として生きるというものであるからね


それを学びに宗教を使うのなら、とても良い事であろうよ。