神は取引、仏は慈悲 | 『真理と道理・人と神』

『真理と道理・人と神』

あの世とこの世のことから人の心や魂や家系の先祖、そこからの道理と常識の大切さを書いています
また先祖や神からの気付きや言いたいこと乗せてます

神と繋がる事を考えよったら
用事がなかったら別に繋がらんでかまんろう
神へは感謝だけを送るもんであるわ
死なんと生きちょることそのものが神力の働きの証やけんね


それよりかは、仏と繋がった方がええわ


人の立場を思いやって、考えてやれる余裕と、理解は、真我にも繋がる



仏と真我はまた違うモノで『友達』の関係ながやと。


真我というのは素直ながやけど、すきやきらいがなんとなくあるみたいやし、やりたいこともあるみたいながやけど、別にこれは人を害するもんやないけんフワフワしてボーーーと呑気におるわえ
一人称の存在やね。


やけん人の事を考えはするけど、合わすという事はせんろう


一応話は聞きよるようやけど、へーとかふーんとか、あーねーとか、思いっきり相手に共感することもなかったら、否定するわけでもない。
そこそこ
適当
まあまあ
程々
というもんかね。
感情をあんまり使わんがやろうね



そこに仏が引っ付くと、感情を介して人を理解して共感する作業をしだす
大変やったねー!
えっ!すごいやん!
こういう気持ちながやろー!
わかるわかるーー!
とか
人に対して興味を持つと表現もできるのかね
つまり、二人称。



真我『みんなにきらわれちょるでー』素直
仏『まだ若いからね~』フォロー


真我『なんでながー』素直
仏『頑張ってあなたに合わして話してくれたのよ』フォロー


毎回これの繰り返し。何の会話やろうかと思う。
真我というもんは勝手にあるもんやけど、仏は求めんといかんようやね
というのも、器の問題で、忍耐と理解する努力といいよった。


これ胃腸炎になったらどうしてくれるろうかと思うけど。(素直)


うちは霊能力があるわけやないけん、こんな会話を客観的に聞いて、自我の自分としたらわからんけど、あーそうやったがやーって思うてね
やけん悪く思われんがやなーとか。
そこで悪く思うたら仏とは離れるがやなーという距離を測る感じに使いよるけど。



仏は経済や国や外国の事は一切わからん。
わからんというより、見えてない。仏の中に存在しないと言うた方がええか。
そんなことより、そこに生きる人間の魂の根源の領域やけんこの世の事や、命の事は全然言わん。あの世とこの世のたてりみたいなものがない

 


やけど神様は違う
これには慈悲がない。
威厳と厳格さ、それと、話は国と世界と人と命の物質界の事
生死の基準とキチンとしたたてりがある。


仏にこの世の因果関係は影響ないようやけど
神様には因果関係が発生するがやろうね


大元のおる次元には陰陽がない
また仏のおる世界の天界という世界にも陰陽がない



この神が厳しいというたち
困難はくる災難はある病気はするトラブルは起こる散々な事を見舞う
しかし、それが起きたときに救うのが仏ながよ。
仕方がないとか、なんとかなるさーとか、良い意味での諦めを丁度の加減で与えてくれて、現状は荒れているが心は安定をもたらす作用を発揮する
吹っ切れるわえ。


やけんなんでこんなにボッコボコにされるがやろうと思う傍ら、助けられてみたりね


やけん、要らんものには触られん❗と思うた。



けど、どうしても社会の事は神霊と神様やないとわからん。
やけん必要ではあるにしろ、関わるとは自分にそれなりの事が起こるわえ


やけん用事がないなら、神様というものには、関わろうとは思わんし、よっぽどのことがないと繋がるものではないろう


死んでないけど、考えたら結果的に結構命が危ないと思うね~
うちの中では神様は願いを叶えるもんやなくて、取り引きをするもんやと思う
ええことちょーだーいっていうたら、じゃあその分の痛い目にあってね。みたいな
取り引き。