「だるまやの、大将……?」
にこやかに笑う稲田青年の横で、眉間に皺を寄せた青年が立っていた。その写真の青年は、キョーコがお世話になっている下宿先の主人とよく似ている。
「お、よく分かったね。僕は彼の後輩なんだよ。フランス料理を一緒に学んでいたんだ。といっても、先輩はすぐに日本料理の方へ行ってしまったけれどね。でも、僕は先輩のことが好きだったから、よく仕事の終わりに会っていたんだ。…まぁそれも、お互いに忙しくなるまでだったけれど。」
楽しそうに笑う稲田は、蓮の手の中にある写真を懐かしそうに見つめる。
「その頃が一番楽しかったなぁ~~…。自分の店を持つんだって大きな夢を持っていたし、誰かを追いかける一方だったから、怖いものもなかった。」
「…………。」
「それから独立して、自分の店を持って。そこからはがむしゃらに経営を立てていこう、自分のこだわりを追及しよう、そう思って。気が付いたら、なぜだか妙に有名な店になっていて、もう毎日が目の回るような忙しさだった。」
「…………。」
「でもね?ふと気づいてしまったんだよ。僕は、ただ単に料理がおいしい店を作りたかったんじゃないんだって。行列ができたらいいって店を作りたかったんじゃないんだ。」
稲田の言葉は、蓮の心にも響く。
―――…演技ができたらそれでいい。それ以外はどうだっていい―――
そう思ってしか生きられなかった……。
そんな一直線で、不器用にしか生きられない人間の心は、誰でもない、蓮ならよく分かる。
「僕は、人と交流ができるお店を作りたかったんだ。忙しさにお客さんと目を合わせない店じゃない。会話をしない店じゃない。お客さんと笑顔を向けあって、少しでもいいから話をして…。ひとりひとりと関わって、心から満足してもらえるお店を作りたかった。そのことに気付いた時にね……」
蓮の手から写真を受け取ると、稲田はそれを大切そうに懐にしまいこんだ。
「ふらりと立ち寄ったのが、『だるまや』だったんだ。」
「…………。」
―――キョーコちゃんを、よろしく頼むよ?―――
今でも残る、『だるまや』の女将の優しい声。
大将の最後に見せてくれた笑み。
「驚いたよ。何気なく入った店に、先輩とその奥さんがいたんだからね。」
まだ一度も踏み入れたことがない場所だが、あの二人が切り盛りしている店だ。とても温かくて、優しい雰囲気が流れる場所なのだろう。
「それにね、よく働く女の子もいたんだ。」
「それが、キョーコちゃんですね。」
「うん。」
そしてその店には、タレントとしてデビューを果たしたにも関わらず、元気に働く栗色の髪の少女もいたのだろう。
「初めて会った時は、礼儀作法がしっかりしているお嬢さんっていう認識しかなかったんだ。でも、次に会ったら、髪の毛を栗色に染めてしまっていてね。聞けば先輩達の家に下宿させているって言うし。」
クスクス、と当時を振り返ってだろう、稲田は笑う。
「先輩、キョーコちゃんが髪の色を変えた時には本気で落ち込んでいたんだよ。娘が突然反抗期に入ったみたいでショックだったんだろうね。」
「そうでしたか……。」
東京に来た頃は、きっと真っ黒な髪だったのだろう。あの幼い日、出会った少女は美しい黒髪だった。母国ではその髪色を恐ろしいという人がいたけれど、蓮にはとても神秘的な色に見えたものだった。
「でも、それからだよ。テレビにでるようになって、ドラマにもでるようになって。そして、キョーコちゃんは少しずつ先輩夫婦に甘えることを覚え始めたんだ。まるで親子のような優しい絆で結ばれていくあの三人を見て、僕は勝手に温かな感情をもらっていたんだ。」
月に一度訪れる『だるまや』のカウンター席で。料理に関係ない話を大将として、女将と笑う。キョーコちゃんがいる日は、キョーコちゃんのドラマの話や学校での話を聞く。
あまり崩さない表情を、少しだけ笑顔にして迎えてくれる大将と、大らかな女将の笑顔と可憐な花のようなキョーコの笑顔。それらに癒されながら、稲田は自分の進むべき料理人としての方向を考えたのだ。
「僕のところはとても『だるまや』のような雰囲気は出せない。でも、根本は一緒なんだ。おいしく食べてほしい。食べる事で笑顔になってほしい。この場所で、素敵な思い出をつくって欲しい。…こんな単純で、純粋な感情を忘れていたんだ。料理人が、こんなことを忘れてしまえばおしまいなのにね。」
だから、『伴』は進化し続ける。味はもちろん、その店の内装までも。来店する客の心に響くような店をつくるために。