「…………。ごめん、そろそろいいかな?疲れたから休みたいんだ。」
「はい。では、失礼いたします。」
雨帖は最敬礼をして静かに志季の室を出て行った。
「…………。」
確かに、疲れはしていた。重く苦しい空気が身体中に付きまとい、指一本として動かすことができない。
志季は椅子に座したまま、ただ茫然としていた。
香蘭が、お嫁に行く。…誰かのものになってしまう日が、くる。
いつか来る日であろうことは考えれば思いついただろうに。
なのに、想像もしたことがなかった。自分自身が、妃をとることを義務付けられた後でさえ。
「香蘭……。」
命よりも大切な、国を支えるための指針となる女性。灯台のように行くべき道を知らしめるその光は、誰かの隣で微笑むようになってしまうのだろうか?
そしてその『誰か』とは、雨帖なのだろうか……?
「っ!!」
香蘭が幸せそうに微笑むその隣で、いつものような柔和な笑みを浮かべる雨帖。その姿が思いのほか似合っているように感じられて、志季は頭を振った。
―――……好き……―――
泣きながら、伝えてくれた天にも昇る至福の言の葉。
その声は。あの時の香蘭の涙に濡れた瞳は、未だ志季の中に鮮やかに蘇る。
あの言葉は、確かに志季が受け取ったものだ。受け取って…。
そして、志季がその手で握りつぶした。
「……。…香蘭……。」
彼女は、応じるのだろうか?あの日のような切ないほどの想いが伝わる声で、雨帖に愛を囁く日が来るのだろうか?
そんなこと、絶対にあってほしくない。例え志季が受け取れないとしても、他の誰かが受け取る日など、きてほしくない。
……誰のものでもない彼女を、誰よりも『誰か』のものにしたくなかったのは、きっと……
「卑怯者。」
それはきっと、紛れもなく志季自身。幸せにしたいと願う少女の幸福を、心から祝えない自分自身への嫌悪感に、眩暈を覚えた。
―――はい、もちろんです。―――
香蘭を、幸せにする。そのことに対して、あれほどまでにしっかりと肯ける雨帖は、誰よりも香蘭の隣に相応しい。
けれど……。
「…………。」
志季は全てを消してしまうかのように、固く目を閉ざした。
もう、何も考えたくはない。何も……。
帝の私室を照らすろうそくの灯りが、ゆらりと風に揺れて…そして、世界を闇に変えた。