雨帖は今、何と言っただろうか?
…信じられない言葉を聞いた、気がした。
「え、でも…。雨帖は『陽』の国の王族じゃないか。」
「はい。ですが、私は王位継承権を持たない人間です。母は平民の出ですから、私が王位を継ぐことはありません。」
「…………それでも、雨帖は王族なんだし……。」
何も考えられない頭から零れ出る言葉は、言いたい事がひとつも込められていない、奇妙な、否定するための言い訳じみたものばかりだった。
「香蘭殿は確かに平民でいらっしゃいますが、陛下のご友人です。陛下のご友人と縁を結ぶことは、我が母国『陽』にとって、とても喜ばしいことです。母も香蘭殿の話をしましたら、納得してくれました。香蘭殿は我が国と晶国の素晴らしい友好の証になられることでしょう。」
「!?雨帖は、香蘭を外交の道具のように使うと言うのか!?」
晶と陽の『友好の証』。そのために、香蘭が雨帖の元へと嫁ぐと言うのなら。絶対にそんなことを、認めることなどできない。
「いいえ。」
机を叩き、声を荒げた志季に対し、雨帖は静かに…だが、力強く、否定の言葉を口にする。
「私は、香蘭殿をお慕いしております。誰よりも幸せにしたいと考えています。…そして、私であれば、それが可能だと自負しております。」
「っ!!」
雨帖の隣に立てば。…数々の陰謀に晒されることはなく、数多いる妃の中で寵を競い合うこともなく、暗殺をされる恐れだって、ない。
そればかりか、豊かな生活を送らせてあげることができ、きっと、医師になることを志す彼女の後押しだってしてあげられる。
志季が渇望する…香蘭を守ることのできる立場が、雨帖には揃っているのだ。
「お許しを、いただけますか?」
「…………。」
『許す』も『許さない』も。
言えた立場であるだろうか?単なる友人でしかない志季が、一体、どのような立場で香蘭にとっての良縁を断つ権利があるというのだ。
「……いいんじゃないかな。」
もはや自身が発している声だという感覚はなかった。言ったはずの己の声が、膜を張ったように耳に入ってこない。
「ありがとうございます。」
遠くの方で雨帖が礼を言う声が聞こえている気がする。でも、今頭に蘇る声は……
『香蘭が誰かのものになっても、怒ったりしませんか!?』
過去に聞かれた、心が砕かれそうな質問。
……そう聞いてきたのは、誰だっただろうか?
『……香蘭は、誰のものでもないよ。』
あの時は、そう答えればよかった。
自分自身の気持ちが定まっておらず、まさかこんな強力な恋敵が出てくることになるとは思わなかったから。
そして志季自身も、まだ誰かを王妃として隣に置く覚悟を決めていなかったから。
「でも、これだけは約束して。」
この国を支える重臣の主として。そして、志季の命よりも大切で、この世の何よりも慈しんでいる少女の…『友』として。
……言えることなんて、限られている……
「絶対に、幸せにすると。」
「はい、もちろんです。」
彼女が大事なのだと。
誰にも負けないほどに大切に想っているのだと。
伝えるための言葉はとても弱く。…間髪入れることなく返された雨帖の応えは、志季がそれ以上何も言えなくなるほどの力強い響きがあった。