「遠方の友へ」という書き出しは、秋山駿がエッセイを書く際によく使っていた言い訳だ。遠方だろうが近場だろうが、手紙を出すような友達なぞ秋山にはいなかったと思う。

さて、遠方の友へ。
友と呼べるかどうかさえ、もはや分からなくなってしまった君が、今いったい何をしているのか、何を考えているのか、おれは知らない。バカみたいに当たり前の話、おれが知っているのは、おれのことだけだ。

四月、五月と、二回続けて友達の結婚披露宴に呼ばれた。二人とも高校時代のもっとも近しい友達である。お高そうな料理を食べ、そして参列した他のやつらと一緒に長渕剛の「乾杯」を熱唱し、二次会では呑んだくれた。要するに、しあわせなパーティであった。

25歳、あるいは26歳、その数字がおれらの立ち会っている局面であるということについて、考えないわけにはいかなかった。なるほど、そういうものか、と思わされたのは、ついこの前までは非常識の代名詞であった友人が、いまでは立派な新郎として堂々たるスピーチをしていたことである。それも会場の参加者たちを安心させるようなジョークまで混じえて、だ。

そう、まったくもって冗談だと思えて仕方なかった。参加者たちのキチッとした礼服や、きらびやかなドレスが、あるいは乾杯グラスのなかで輝くシャンパンの水泡が、おれには理解できなかった。つまり、何かのお遊戯会か、もしくは壮大な冗談であろうと思いたくなるぐらいには、現実感がなかったのである。

とはいえ、おれらのことである。他の参列者たちから顰蹙を買うぐらいには盛大に乱痴気騒ぎをしてきたことはいつもどおりであった。ただ、それがいつもどおりであるだけに、余計にわけがわからなかった。

何が分からないのか、じつは今でもよく分からない。しかし、この現実の何かが分からないということだけは確かなのだ。それが言葉になるには、おそらくもう少し時間がかかる。

そうして、何か不可解なものを見かけた、という程度で事を済ませようとしているおれがいる。なにせこちらとら早足どころか駆け足で自分の状況を変えようとしているわけだから、学生時代みたくファミレスの隅で煙草をポクポクと吹かしているわけにもいかないのだ。

遠方の友よ、君がご存知の通り、筋金入りの直球ド真ん中主義者にして大暴投も珍しくないおれは、やはりやぶれかぶれに全力投球するよりほかないのだろうと諦めている。(諦めるとはそういうことなのかもしれない)

つまり、今後の将来を悲観することなく、しかし未来の一切を呑気によって否定しきることが、今のところの結論だ。自分には未来がないということではない。どんな形であれそれはやってくるだろう。だが、そんなことは、今はどうでもいいのである。全身全霊でもって文章が書けさえすれば。

そのようなわけで、二十代半ばという時期に特有の悩みが、おれにはない。ゆえに、おれは悩まない。これからは、邪魔なもの、余計なことを、もっとどんどん削ぎ落としていくつもりだ。

たとえ最後に何も残らなかったとしても。


グッドバイ、グッドバイ、サヨナラだけが人生だ、グッドバイ、トーキョー。