師走になれども

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師走だ。

しかし特に何もない、相変わらず。

過ぎていった一年を省みるような感傷もない。

おそらく新年を迎えても「今年の抱負」を語ることはないだろう。

働き、働いて、働く。

たったそれだけのことだ。

とはいえ、新しく始めたことがないわけではない。

古本を通した社会活動に参加している。

だが、別にだからと言ってこの人生に何か新しい展開があるわけでもない。

 

ともかく、自分の墓標を建てようと思った。

もちろん本当の墓ではなく、文章で、だ。

それで文芸批評を書いている。

秋山駿を中心にして中原中也、小林秀雄

田山花袋、芥川龍之介、大岡昇平、江藤淳、柄谷行人

このへんを取り上げている。

宮本顕治『「敗北」の文学』の字面をパクって

タイトルは『「失恋」の文学』にしようかと思う。

「私小説」や「私批評」をみんな道連れにして

自爆テロを仕掛けるつもりでいる。

これが最初で最後だ。

 

終わらせよう、自分の手で。

 

 

 

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終わってしまった人

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特に書くこともない毎日を過ごしているから、ここに書くことはやっぱり何もない。
まず報告すべきことは何もなく、というかそもそも宛がないので報告することは不可能であり、書き始めてたった数行で無に帰してしまったこの思考は堕落した僕の姿そのものであろうことは言うまでもないが、だからこそかつての激しい饒舌さを支えていた強迫的な神経症はいくぶん和らいだと言えるのかもしれない。
というわけで、これまでの僕は「私であること」に精神の全体重をかけてきたように思うし、今もなおそうであることは紛れもなく事実で、ただ生活の必要から、つまり日々の労働から、その態度を無理に抑え込んでいるうちにとうとう「私」が鈍感になってきたようであり、ついに僕も擦り切れたかと投げやりな気持ちで毎日をやり過ごして、じゃあもう仕方ないと社会人らしく大人らしく「人生の進捗」に取り組む算段をつけ、「幸せな日常」へと邁進する同世代と同じようにして「成熟」に向けた進路を採ろうとしたのだが、しかし結局は全てご破算に終わり、人生に対する自分の無能さに呆れかえるばかりであった。
僕にとって常に問題であり続けた劣等感や不満足や憂鬱や苛立ちは嘘のように霧散消失し、情念にまみれた笑えない青年はいなくなって代わりにスーツ姿の笑える機械人形が同じ一日を永遠に繰り返すようになったので、「労働」と「読書」だけが僕の生活となったのである。
「労働」については特に書くことがないと言わざるを得ないだろうことは僕がまだ何も成していないことから明らかであり、もちろん水面下では色々と画策しつつも社内での立ち位置は相変わらずの生意気小僧でしかなく、要するに昼メシだけが楽しみの何でもないただの営業マンである。
「読書」の方は少しずつ良くなってきたようで、この生活を始めたときは疲労でまったく集中できずにいたが今ではだいぶマシになったことが最近の読書履歴、つまり芥川龍之介『或阿呆の一生』『大導寺信輔の半生』『歯車』『神神の微笑』、萩原朔太郎『月に吠える』などの詩集、宮本顕治『「敗北」の文学』、大岡昇平『俘虜記』『萌野』『中原中也』、金子光晴『鮫』などの詩集、雑誌ユリイカ「蓮實重彦特集」、蓮實重彦『批評、あるいは仮死の祭典』、フローベール『ボヴァリー夫人』などを楽しく読めるようになったことから分かる。
野暮ったくも文学作品を羅列したのは、僕が「世間」とか「人生」から遊離していることを示すためだが、要するになんだか「人生が終わってしまった」ことを実感しているのが韜晦やアイロニー抜きの正直なところであり、もはや「新たな始まり」はないのだと痛感しているわけで、思想や文学などといった世間で言う「若気の至り」を諦めることを諦めるしかないのだなとため息混じりに呟くほかない。
「僕は底の底まで落ちて、神を掴むのです。そして世間といふものは、悄気(しょげ)た人を避ける性質のものです。然るに芸術の士であるといふことは、虚偽が出来ないといふことではないか!」
このように中原中也は叫んでいたらしいが、僕の場合は底の底まで落ちたところで掴めるような神がないし、「芸術の士」なんて名乗れるほど大層な者でもないけれども、虚偽が出来ないことに関しては中原に一票入れたいと思わないでもないが、しかし実際のところは嘘だらけ偽りだらけの自分をどうにかやりくりしてきたものであるからやはり中原の詩を読んでも「凄いなぁ」ぐらいの平凡な感想しか出てこないのであり、ただこの言葉が書かれた当時の中原中也の状況だけは全身全霊をかけて同情し憐れんだ後に「この馬鹿野郎」と言ってやりたいことだけは付け加えておこう。詳しくは大岡昇平『中原中也』に書いてある。
これでもう書くことがなくなってしまうのだから本当に僕は無内容な人間であると共にやはり生きるべき人生は終わったんだと改めて思う次第、あとはもうやけっぱちのやぶれかぶれにサラリーマンをやるしかないので、脇目も振らず本を作るために書いて書いて書いて突き進んでどこかで野垂れ死ねばいいと思うが、こんなのは若者の妄想に過ぎないことも十分に承知しているので、「いやぁ今日は疲れました。さっさと帰って寝ることにします。健康は大事ですから」などと笑いながら言っているのである。

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社会生活者の手記

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今月もまた給料をもらった。
でも、先月の分がまだ残ってる。
とはいえ何も買わなかったわけではない。仕事に必要なビジネス書を2冊買った。自分が読みたい本も10冊ぐらいは買った。それから新しい靴も買った。友達と旅行に行ったり、同僚と飲みに行ったりもした。

金をもらったから、それを色々なことに費ってみた。それでも、なにかこう社会人生活の充実した喜びを感じたかと問えば、別に虚しさや嫌悪感はなかったけれども、やはり疑わしさは残る。
他方で、僕がここ最近で一番充実した気分になったのは、地元の駅の裏手にある喫茶店で好きな本を読んでいた時だ。つまりその時に費やしたお金は、コーヒー代と本代と煙草代だけ。要するに、学生時代とそのへんは何も変わっていない。

僕には「社会人」としての感性が欠損しているのだろうか。でも仕事はちゃんとやっている。もちろん順風満帆とはいかないけれど、時に怒られ、時に褒められ、出版社での日々を過ごしている。仕事自体は、思いがけずやることになった営業職を含めて、楽しいと思う。だから、たぶん僕は本当にこの業界の仕事がやりたいのだろう。

朝が始まり、通勤ラッシュの満員電車に乗り込んだかと思うと、気がつけば帰宅ラッシュの満員電車に乗っている。それぐらい一日はあっという間に過ぎる。
今もそんな一日が終わって、いつもの喫茶店で店内に流れるピアノの音を聴きながらこれを書いているところだ。

つくづく思うが、僕は欲張りで傲慢な人間だ。こんなに満足で安定した生活を、不満に思って不安に感じているのだから。

きっと僕はまだ忘れられないのだ。
泥だらけのチームジャージで、全身はくたくたで、頭はからっぽで、次の試合が楽しみだった日々を。
積み上げた本の前で、開いたノートパソコンを睨んで、今にも発火しそうな頭を抱えて、何かを掴もうとした日々を。

生活に絡めとられる身体を真っ向から批判する観念としての自分、これを「頭でっかちな若者」と呼ぶならば、僕はその類いの人間に違いない。

このノートを決して手放すな。
他の誰がなんと言おうと、他の誰がどうしようと、俺の人生の責任を取るのは俺だけなのだから。

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