簡単な生活

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5時半か6時には起きる。
6時半から8時まで本を読む。
電車に乗る。
9時半から18時まで働く。
電車に乗る。
19時半から21時まで本を読む。
23時には寝る。

この簡単な生活をこの3週間ずっと繰り返している。時間の流れはすこぶる速く、その内実はとても単調なものだ。しかし退屈はしない。なぜなら、覚えなければならない仕事は山ほどあるし、営業の成果目標にたどり着くために街々を歩き回らなければならないからだ。日々に急かされて今日も歩く。

こうして始まった社会生活は、喜んで特筆すべきことなど何もなく、ただこの日々にあるのは、現実によって自分の憧れが幻滅していく過程と、自分を飲み込んで沈黙の海に沈めようとする日常の見えない力だけである。

本を読むこと、文章を書くこと、それだけが今のところ僕にできうる密かな抵抗だ。夢物語を失った時点から、現実に打ちのめされた地点から、どんな言葉を発することができるのか。

とある雑誌の批評新人賞に応募する。その審査員とメールのやりとりをした。「全身全霊をかけて読んでやるから全力でこい」という。願ってもないチャンスだ。そして同時に今までにないほどのピンチだ。

批評において、向こうが国内王者なら僕はプロテストも受けていない練習生にすぎない。それがいきなりのマッチアップというわけだから、膝が情けなく震えて止まらない。比喩をやめて率直に言えば、何をどう書けばいいのかすら分からなくなっている。

仕事が忙しいから、新生活に慣れてないから、今日は疲れているから、そういう言い訳をつけて逃げ出すことはいくらでも可能だ。この忙しない惰性の日常は僕を許してくれるだろう。

あるいは、こう言えばいいのか。僕は大学院も出てないし、まだ勉強不足だから、そんな挑戦はおこがましい、謹んで遠慮すべきだ。そう、世の中には自分なんか足元にも及ばない同世代の若者がたくさんいる。だから、自分の出る幕などない。こうした冷静な認識も、きっと多くの人が認めてくれるところだろう。

ここで逆接の語を用いるのが僕のクセだ。そして、今回もそうなる。毎度のことで自分でも白々しくなってくるけれど、それでも言うよりほかない。

さて、「しかし」だ。
いま満員電車のなかで書く、この逆接に渾身の力を込めよう。
僕はそれでも書かねばならない。
僕たちが越えられなかった壁について、僕たちが過ごしたギリギリの生存について、僕は書かねばならない。本当の本当にケリをつけなきゃいけない。
だから他の誰がどうであろうと関係ない。そして、僕がどうなっていようとも関係ない。僕はこれまでの僕を破壊して乗り越えるために、つまり生きるために書く、それしかない。

「私は、この私という奴の生命を、自分の掌にしっかりと握りしめて、かろうじて一日を過ごす。否、一日を行くのだ。何故か。投げ出すために。処構わず、手当たり次第にぶち当て、砕いてしまうために。これが私の生活だ」

秋山駿「抽象的な人間」


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夜明け前

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この六年間に風景の彩りをくわえるとしたら、それはもう絶対に「夜」だ。

 

印象に残っているワンシーンを記憶の書架からてきとうにいくつか引っぱり出してみようか。

 

はじまりは新宿駅のバスターミナル、被災地に向かう夜。はりつめた静けさと医療関係者たちの緊張した顔。これから向かう先は世界が砕けた場所。

香港の夜。やけにボロッちい不格好な高層ビル、ギラギラしたネオン看板、ネイザンロードの混沌にまきこまれて、不安と興奮の熱にうかされて、眠らない街を歩く。

ガソリンスタンドの天井に取りつけられたライトの強い光、それとは対照的な暗い青梅街道、頬を削っていくような風、かじかんだ手。オーライオーライ、はいけっこうです、いらっしゃいませ。

団地のさびしい蛍光灯、ドアノブが動く瞬間を待つ深夜、震えるくちびる、そして音もなく人影が現われた。今日はどこにしようか。まずはあたたかいものを。

ロードサイド、ぽつんと光る街灯にむかって煙草のけむりが立ち昇る。語った夢や希望の数だけ吸殻がアスファルトの上に積もる。未来は俺らの手のなか。

気負った分だけ重くなったバックパック、母親が風呂に入っているあいだに家を飛び出した。月が美しい、旅の出発は夜にかぎる。

列車の理不尽な揺れに起こされて、車窓から真っ暗闇の大地を見つめる。大陸とは、いったいどのようなものなのか。あまりにも大きすぎる草原。

退廃的な夜というのは、おそらくこういうことを意味するのだろう。ガラにもなく瓶ビールを片手にして、眼下にひろがる市場の熱いうねりを醒めた目つきで見つめる。隣のやつが言った。おい、ハッシシ喫うか。すっぱい匂いが屋上に漂う。ああ、よこせ。

夜景に溶け込んだモスクのファサードを眺めていたら、ここがアジアの終わりだということに気づいた。洋の東西が入り混じる歴史の中心点、アラベスクは何を意味するのか。混沌が生みだす秩序。

無数にきらめく星々の下、静まりかえった砂漠の上を、トロッコ列車が疾走する。頭上を矢のように流れていった星辰。ここに古代の人々は神話を見たのだ。これがアラビアンナイト。

暴力の匂い、はっきりとは見えない人びとの蠢き、焚火の赤がチラチラと揺れて、野犬が荒々しく吠える。乗り合いバスはまだ人が集まっていない。待ちくたびれて眠そうにしてる相方に言う。ここらでメシ屋をさがそう、次にいつ食えるか分からない。

貧困のどん底みたいなバラック街の真ん中で、ここが売春宿だと気づいたのは夜の帳が下りたころだった。独房のように殺伐とした部屋、やっぱりシャワーの水は出ない。のどがカラカラで暑くて仕方ない。隣の部屋から聞こえてくるあえぎ声で気が狂いそうになる。そうだ、思い出した。日本では今日は成人式だった。

海岸沿いの坂道を上り、上り、上る。ペダルの重さが一回転ごとに増えていく気がして絶望しそうだった。これから喜望峰に向かうっていうのに。ボサボサに伸びた髪の毛をふり乱して進む。いや自分は本当に進んでいるのか。朝はまだか。

成田から新宿へ、そして地下から地上へ行くと、まず不気味で人工的な明るさが目に飛び込んだ。次にたくさんの人びとがゆるみきった表情で夜の街をうろついているのが見えた。僕はこんな国なんて知らない。こんなに安らかに呆けた場所が僕の母国だったのか。

コンビニから戻ってくると、リビングでみんなが楽しそうに話していた。内装の飾りつけをどうしようか、いついつが空いてるからそこで集まろう、そういう声が聞こえる。キッチンの換気扇をまわして煙草に火をつけた。地球を一周してやっと見つけたのはこの居場所だ。

セリーヌ『夜の果てへの旅』がニューヨークまで進んだとき、いったん本を閉じてコーヒーをすすった。ファミレスは閑散としていて、店員がひまそうな顔をしてレジにいた。一見して平穏な日々、しかし頭蓋骨の中は大変なことになっていた。

児童館の柵の内側、桜の花びらが街灯に照らされて白い。夜の静けさに身を任せながら考える。僕たちがこの柵から外に出る日はあるのだろうか、と。つまり、二人で一緒に大人になれる日はやってくるのだろうか、と。祈るしかない。

抽象的な旅には終わりがなく、全体的には引き延ばされた袋小路のようで、しかも進めば進むほど分岐する道の数は増えていった。出口のない迷路。ふと窓を覗き込むと、その暗闇には生気を失くして青白い顔をした男が映っていた。この旅を終わらせる方法がわからない。

真っ暗な部屋のなかで画面だけが光っていた。頭をからっぽにしてその小さな世界で動きつづける映像を眺めた。物語には違いない。けれど、いやその反語をつけたらいけない、そう思い直してまぶたが重くなるのを待った。

ひょっとしたら地球の重力がここだけ通常の千倍ぐらいになっているんじゃないかと思いたくなるほど、その沈黙は重い。呼吸をすることも、ましてや何か喋ろうとすることなんて、まったくの不可能だ。沈痛という名の夜が二人の人間を二つの存在にまで還元した。隣に在る、それしかできない。

焦燥感、不安、恐怖、そういったもろもろの感情に駆りたてられて、大急ぎで履歴書を埋めていく。抽象的で自閉した思考は、社会の現実の前では何もできやしない。大きな封筒に書類を突っ込んで、夜道の帰宅ラッシュに逆らって駅前まで歩き、ポストにそれを投函した。

何百回目かのファミレスでの夜、リュックに詰め込んだ参考文献の山をテーブルに積み上げて、即席の書斎と化した喫煙席で卒論の執筆を始めた。白紙のワードに向かって、内側からこみあげてくる言葉の濁流を叩き込む。爆発的な勢いで書き続ける。頭から蒸気が吹き出てもおかしくはなかった。全身全霊、全力投球、一気呵成。

木枯らしの吹く公園で、言葉がきれぎれになるのが分かった。伝えようと思ったことは生まれた瞬間に死んでいき、何もかもが無にしかならない。空々しい笑いしかできない。夜より暗い気分が口元から滲み出ていやしないかと不安になる。

一人でいるよりも二人でいる時の方が孤独に感じることもある。そういうありきたりな言葉が冗談ではなかったことに気づいたときには、すでに何もかもの取り返しがつかなかった。お互いがお互いに背を向けたから、この夜が明けることはない。

 

この六年間でいくつもの夜を渡り歩いてきた。そして、この夜と朝の狭間でひとり、まだ書くことをやめられそうにない。ふりかえり、ふりかえり、名残惜しい、本当に。夢のような夜が終わってしまう。現実よりも真実めいた夢からゆっくりと覚めていく。最近は色んな人から「明るくなったね」と言われる。少し前までは醒めたまま笑ってみせていたのが、いつの間にか何も考えずに笑っている自分がいる。そういえば、顔がこわばることも減ってきたような気がする。少しずつ健康的になってきているのだろうか。きっとそうだろう。

でも、だからといって、この夜の日々が過去になるからといって、忘れ去ることはできないだろう。そんなことはできるわけがないのだ。この夜はもう自分の内部に深く突き刺さって、一生ずっとそのままだと思う。だから、この内部の痛みを言葉にしつづけることになるのだろう。僕が文章を書く理由は、突き詰めればそこにしかない。

 

この夜を握りしめて、朝を迎えようと思う。

 

 

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卒業作文

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「2190日間の混乱」

http://libre.hateblo.jp/entry/2017/03/11/140701

 

卒業作文を書いた。けど、この文章には大きく二つのことが欠けている。恋愛と西アフリカについての記述がほとんどないのだ。自分を大きく変えた二つの体験を書かなかった。いや、書けなかったという方が正しい。この二つについて僕はまだ何も整理がついていない。

 

とはいえ、立ち止まっていれば整理がつくというわけでもないだろう。卒業式の日まで一週間を切った。会社内では4月以降のことを聞かされる。僕自身もぼさっとしているわけじゃない。いわば「種蒔き」をせっせとしながら3年後を見据えている。一歩ずつ前へ進んでいるのがはっきりと分かる。

 

出口の後で、入口を前にして。

今感じるのは、この六年間の厚さであり濃さであり強さだ。そのなかにいたときはあれほど不安定に思えたのに、今では不思議なもので、自分の背中を支えてくれているような気がする。もう一度、前のめりで走り出すことを可能にしてくれる。逆境はいつものことだ、ゼロからのスタートもいつものことだ、しかしそれがなんだ。と、言ってくれるよう感じがする。

 

前へ、前へ、それしかないじゃないか。

前のめりで一歩目が出てしまえば、その勢いで二歩目を出さざるをえない。そこからはもう何かにぶつかるまで猪突猛進だ。我ながら思うけど本当に単純バカである。しかし言い訳や気後れで何か新しい可能性が拓けた試しはないのも事実だ。そういえば、アニメ『SHIROBAKO』の登場人物である杉江さんがめちゃくちゃ良いことを言ってる。

 

「才能っていうのは、何よりまずチャンスをつかむ握力と、失敗から学べる冷静さだと思う。僕は僕より上手い人間が、わずかな自意識過剰やつまらない遠慮のせいでチャンスを取りこぼしてきたのを何度も見た」

 

本当にそのとおりだと思う。自意識をこねくりまわしている暇があるなら、一歩でも前に出て、一つでも多くの挑戦をするべきだと思う。なにせ、「僕たち」はまだ24年やそこらしか生きていない若者なのだから。なぁ、違うか。心の生傷が絶えなくても、「それでも」と言ってみせることが大事なんじゃねぇのか。たとえかっこわるくても死にものぐるいの一手を繰り出すことにしか僕たちに可能性はないと思うんだ。

 

俺はもう行くぞ。

この6年間すべてを引き受けて、もう一度前を向くんだ。

そして、ひとりきりの場所から、自意識から、外へ出ていく。

誰かと出会うために、誰かに届く言葉を求めて。

 

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