大学5年目の新学期が始まった。
本来無かったはずの時間が現れた。
キャンパスの喫煙所には知らない顔ばかり、でもみんな似たような格好。
フランス語の授業でも知らない顔ばかり、でもどこかで見たような顔や髪型。
時間は流れていく。なのに、ある種の既視感を感じるのは何故だろうか。
面白い。RPGゲームがリセットされたような感覚だ。僕だけが筋書きを知っている。
そんな勘違いをしながら、今日も普通に毎日を過ごしている。

就職した友達がどんどんと地方へ配属されていく。
フェイスブックに近況や報告がアップされる。
ある新鮮な感覚、もしくは人生の転機、それがソーシャル上で共有される。
現実味のない現状報告。知ることと理解することは違う。
彼らが居なくなったことを理解するのはもっと先だろう。
名古屋、茨城、大阪、仙台etc
僕は、フットワークの軽さだけは、ワールドクラスだ。
国内なんて大したことない。会おうと思えばいつでも会える。
いや、そんなの嘘だ。
ある種の悲観的な感情がぽたりと零れ落ちる。
時間としての人生をいつでも考えている。
そこに一つの大きなテーマを感じているからだ。
すなわち、生きた時間と生きていく時間のことである。

新宿歌舞伎町の雑踏に立つ。
その時、僕は周囲を行きかう人たちを眺めながら考える。
この人たちも生きた時間がある。
そして生きていく時間もある。
重々しい面構えのオッサンも、一度や二度ぐらい若き失恋をしただろう。
妖艶な恰好のおねーさんも、いつかはおばあちゃんになるだろう。
そう思うと面白くなってくる。
目の前で人が存在していることに、何も感動を覚えないのならこれには気付けない。
人間存在=現存在を実存として捉えて、その本質を「気遣い」だと言ったのはハイデガーだ。
気遣いとは、言い換えれば配慮的な関心であろう。
認識の在り方によって存在者はその姿を変える。
僕は道行く人を「道行く他人」として見ない。
観客なき幾多のドラマを演じてきた役者として人々を見る。

話を戻そう。
みんなそうしてドラマの演目をやり切り、やり過ごし、生きていく。
その舞台には照明も背景も登場人物もセリフすら、あったり、なかったり。
福田恒存が言うところの「特権的状態」、全ての劇的要素が必然性の下に完璧に出揃うこと。
それはありえない。日常はままならない。
不完全な、欠如態でのみ綴られていく人生。
つまり「その友達とはそれ以降会うことがなかった」という語り。
語り手は、淡々と脚色された事実を述べる。
「結局、その友達とは連絡も取らなくなった」
「そうして十数年が過ぎた」
「噂によると、遠い彼は結婚したらしい」
「ソーシャル上の報告では、その彼女には子どもができたらしい」
「あいつ、病気で死んだらしい」
語り手は冷酷に物語る。

「物語る」ということを、ここ数週間考え続けている。
みんな「自分語り」をしたがるのは何故だろうか。
きっと知ってほしいのだ。自分の物語を。
自分の存在に気付いてほしいのだ。
「雑踏の通行人」としてしか見られなくなったとき、人は死ぬ。
物語り続ける人、ホモ・ヒストリアとして人は生きる。

五年生の友達は、就活の真っ最中である。
面接だって「物語り」に違いないだろう。
舌先三寸で自分を表現するのだから。
いかに語るか、自分の物語にオッサンたちをいかに引き込むか。
こんなのはハッキリ言って客観的水準を持たない。
つまり間主観的な、幻想の営みと言える。
だからこそ不採用=自己否定の定式が成り立ってしまうのだが。
自分の物語を否定されることほど存在の根幹を抉ることはない。
そうしたことについて深く考えている人事が一体何人いるだろうか。
欺瞞と無知の侵犯が今日も続く。


そういえば新学期早々に体調を崩した。
今は熱がひいて、倦怠感もなくなったところだ。
だから1日半ぶりに煙草を吸って、こうして何かを書いている。
久しぶりの風邪で戸惑った。
それなのに何故か心地よかった。
布団の中で汗をかいて、朦朧としながら、夢を見る。
断片的に覚えている。
僕はどこかのレセプションで、何かの証明書を要求している。
受付の人はずっとはぐらかし続ける。
僕はずっとイライラして、ついには怒鳴りつける。
受付の人はそれでもシラっとした態度を崩さない。
もはやイライラを通り越して、強烈な不条理に突き飛ばされたような気分になる。
そうして目が覚めて、あれは何だったのだろうと思う。
まるでカフカの小説を読んだあとのような気分になる。
わけがわからない。
しかしともかく明日は学校に行けそうだ。

学校。
そう、学校には普通に行っている。
なんのストレスも緊張も焦りも感じていない。不思議なぐらい。
きっと色々とどうでもよくなったのだろう。
目の前に集中すべき目標ができたからなのかもしれない。
学校以外のこと、とはいえその数は少ないけれども、それらもどうでもいい。
煩いことはどこにもない。温和な静謐だけが広がっている。
学校があって、五年生の友達がいて、本が読めて、懸賞論文という目標がある。
学生時代の最終局面はこのようにシンプルな状況となった。
「喧騒から遠く離れて」とでも言えそうな日々。
面白い。
日本中が乱痴気騒ぎのなかで、一年生だった僕自身も混乱しっぱなしだった。
それがどうだろう、4年も経てばこの通りである。
ありとあらゆる喧騒と混乱と雑踏を潜り抜けて、今は静かだ。
日本は相変わらずだが。

深夜の饒舌は続く。
精神の「静けさ」とは何だろうか。
たぶんその語意にしては意外にも、静けさの内的な状態は非常に充実している。
ただ状態が揺らがないだけで、むしろ充実しているからこそ揺らがない。
水面はぴたりと一文字に、そしてその下は虚無ではない、心を満たす水量がある。
今僕はここで認識を変えよう。
この「静けさ」は、流れの中にあるのではなく、堆積した記憶の上にある。
「静けさ」を保てるだけの時間と出来事を積み重ねてきた。
意志を強く持つだとか、頑張るだとか、そんな感覚じゃない。
自然とそうなっている。もちろん望んだからなのだが、「望む」ことの意味合いが違う。
僕はずっと「頑張ること」に執着し続けてきた。
肩に力が入りっぱなしで、つま先立ちで背伸びをしたまま、ぶるぶると身体を震わせてきた。
その態度を否定する気はない。というか、それが無かったら今の僕はありえない。
そしてこれからもそうしていくだろう、これが僕の生き方である。ちっぽけな生命の振動である。
ただしかし僕なりに自分を落ち着ける術を身につけたということだ。
つま先立ちのまま、ぴたりと静止することができる。そんな感じだ。

立ち止まることを良しとしない風潮。
より速いことが称賛される世界で、立ち止まることは即座に反逆の意味を持つ。
しかし立ち止まることは楽ではない。むしろ苦痛が付きまとう。
この現代に至っては、動くことが自由なのではない。
確かに速いことは市場価値を持つ。
ただ一方で立ち止まることは自由としての価値を得る。
人たちは動いているのではなくて、動かされている。
動くことを求められて、そうすることによってしか自己を確認できない。
餌だけを求めて目的のない回遊を続ける魚のように。
だから僕は「人間らしく」いこうと思う、椅子に腰かけて本を読もう。
そして時には気分で散歩に出かけよう、そうやって生きていこう。
でなけりゃ、誰のためにこの人生はあるのだろうか。

この天邪鬼な精神は一体いつどうして僕に根付いたのだろうか。
これは正直なところ原因もその時期もさっぱりわからない。
分かることは、それこそが僕にとっての重要な自己確認なのだろう。
一番大事な場面で逆張りに賭けること、合理主義の世界で不合理なプレイをすること
きっとそれは僕なりの戦い方だとも言える。弱い人間なりの方法。
強いヤツラに一発喰らわす方法。
思えば、僕は常に「強いヤツラ」に囲まれて生きてきた。
そこで覚えたのは、努力と劣等感。
そしてヤツラの脆さ、言い訳もごまかしも無視もできないこと
つまり「人生」に対するヤツラの恐怖心や不安を知った。
人生においてのみ、僕はヤツラと対等だった。
今から傲慢で軽率なことを言おう。
人生においては、みんなチキンだった。それは経験的に知ったことだった。
ピッチ上では勇敢、テストでは優秀、恋愛では雄弁、なのに人生の重要な選択では総じてビビりだった。
何も持たない僕にはこれが不思議で仕方なかった。
きっと根源的には自分を信じてやることができないのだろう。
自分に対してガムシャラになることができないのだろう。
倒れそうになるギリギリまで前傾姿勢になることができないのだろう。

確かにこれは僻みや劣等感から来る感想に違いないだろう。
それを認めたうえで、しかしある程度の妥当性はあると思っている。
明日死ぬという可能性が否定しきれない人生において、生きた時間を長く保つことに意味はないのだ。
及び腰のままソロリソロリと長く生きたところで、それがなんであろう?
誰だって死ぬときは死ぬのだ。車に突っ込まれりゃ一発で逝っちまうのだ。
だから主観的な時間を濃密にすること、それしかない。
時間の濃密、つまり強烈に充実した記憶の連続。
「長生き」は形式的な結果でしかない。それ自体に価値はない。
生きた時間に何を経験してきたか、それが問われる。
面白いと思うこと、楽しいと思うこと、感動すること、熱くなれること
それらに対してどれだけ真摯になれるかが問題である。
これをうやむやにしようとするヤツラはどれだけ強かろうが小物だ。
人生自体に踊り込む勇気がないヤツを僕は相手にしない。

全てのしがらみを振り切って、障壁をねじ伏せて、無我夢中になって我を踊るヤツは見ていて面白い。
そして有り難いことに今ではそうした友達が周りにいる。
人生から醒めちゃいけない、個人的な幻想だけは持ち続けなきゃいけない。
ご大層な理想を掲げろというわけではない。
一人なのにハイテンションになっちゃうような日々を生きるべきなのだ。
そうした人たちが集まった時、それは最高に楽しい時間となる。

さて、そんなわけで今日も学校だ。