タイトルの四つの単語は、大抵の場合に男の子がいずれ獲得する役割である。
言い換えれば、男の子の将来的な「複数性」とも言える。
つまり「僕は僕なの!唯一無二の僕なの!」と言ってるうちは決して辿り着けない状態のことである。
さてしかしその複数性というのは一体なぜ発生するのだろうか?
答えは簡単だ、人間関係によって生まれる。もしくは大文字の「世間」によって分節される。
ところで、僕は未だに「男の子」であるという自意識が強い。
しかし社会制度上、年齢的には大人の男性である。
では人間関係もしくは世間からすれば、僕は一体なんだろうか。
たぶんそれは若者であり男子大学生であるだろう。
思春期、という言葉がある。子ども扱いされるのがイヤになってくる年頃だ。
ただし大人にはなれない時期でもある。だからこそガキっぽさが目立ってしまう。
僕は思春期なんぞとうに過ぎてしまった。青年期と区分されるはずである。
10代の思春期が子ども-大人のダブルバインドに悩むのならば、青年期は何に悩むのだろうか。
多分それは観念上の自我と社会との摩擦によるものだろう。
すなわち形式の問題ではなく想像の内容であり、しかも自分という実存を共通の磁場とした悩みである。
社会とは自分を包括する共同的な想像体であり、自我とは自分から発生した個人的な想像体である。
この両者のせめぎ合う間に、ギリギリの緊張感を持って成り立つのが自分である。
自分とは社会と自我が交渉する場とも言える。
社会的な意味合いでの男、道徳的な立場としての大人、経済的な区分としての社会人、生活的な属性としての父。
こうしたそれぞれの状態を自我は吟味する。
自我は買い手でありながら、時には売り手でもある。
自我は複数性の根源であり、複数に表象される何かである。
そして当然だが複数になる目的は他者にある。他者こそが、自我という何かに実体を与える。
自分は場であり、自我とは個人的統合的な想像体であり、場と想像を結ぶものが「他者による複数性」である。