ケインズは人間を馬鹿にしている | 古典的自由主義者のささやき

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経済の問題は、一見複雑で難しそうに見えますが、このブログでは、経済学の予備知識を用いずに、日常の身の回りの体験から出発して経済のからくりを理解することを目指します。

景気が落ち込んで失業率が上がると、どこの国でも政治家に対する国民の批判が高まります。すると政府は出費を増やし、道路や橋などを建設します。これらの建設事業で失業している人を雇って国民の批判をかわすのが狙いです。政府の支出によって失業を減らす政策は、提唱者の中で最も有名なジョン・メイナード・ケインズ (John Maynard Keynes, 1883-1946) の名前を取ってケインズ政策と呼ばれています。

以前のコラムで、政府は支出を増やすために人々の貯蓄を巻き上げること、そして政府が人々の貯蓄を使うと、長い目で見れば人々が豊かになることが妨げられることを説明しました。
今回は、失業対策として政府の支出増大を主張したケインズの人間観を考察します。

ケインズは失業対策に政府が穴を掘って貨幣を埋め失業者に掘らせればよいと主張したとされ、このためにケインズの経済学は「穴掘り経済学」と呼ばれることがあります。公平を期すために付け加えると、ケインズは実際には、「銀行券を空き瓶に詰めて廃坑となっている炭鉱に町のゴミで埋めたあと、民間企業が勝手に掘り出すのに任せれば失業はなくなる」という言い方をしています(*)。しかしいずれにせよ、失業を減らすためには、どんなに無意味な政府事業であってもやらないよりは良いとケインズは主張しているのです(*)。

ケインズの人間観を論ずる前に、ケインズが自身の提案で一掃しようとした失業がそもそもなぜ起るのか考えてみましょう。

我々は、物やサービスを分担して生産しそれらを交換という協力関係を通じて獲得することで生活しています。世の中には、「空気」のように、人間が全く手を加えなくてもそのままその場で利用できる物質もありますが、人間にとって必要な物やサービスの殆んどは、人間の労働によって生産されています。

人間の提供できる労働量に限りがある以上、労働力によって作られた物やサービスの量にも限りが出てきます。つまり、自分の生産物と引き換えに他の人の作った物やサービスを得ようとするときには、どんな人であっても、自分自身が生産した限られた量の物やサービスと引き換えに人々が提供してくれる量だけしか、物やサービスを受け取ることは出来ません。従って、交換によって物やサービスを手に入れる際には、人は最も必要なものから優先順位をつけて購入します。人間には常にもっと欲しい物が存在するのですが、皆んな自分が購入できる範囲で我慢して生活しています。

このような分業と交換に基づく社会では、人から物を奪うことは不正な行為とみなされて許されません。自分が必要なものは、人との「合意に基づく交換」で獲得する必要があります。そのためには、自分は相手が望む物や必要とする物を提供する必要があります。詳しく言えば、分業・交換社会では、労働して何かを生産する場合には、他の人々が必要とする物やサービスでなければならず、また、それらを人々の手が届く価格で生産しなければ、作った物やサービスは売れないということです。同じものでも今までよりも安く提供できれば、人々はもちろんより多くの量を購入するようになります。

従って自由な交換に基づく社会では、人々は他の人が買ってくれる物やサービスを買ってくれる量だけ生産するようになります。その結果、社会全体で見ると、生産される物の量と購入される物の量は一致する傾向があります。当然のことですが、具体的かつ特定の物やサービスの一つ一つに注目すれば、それら一つ一つを欲する個人個人が存在し、その人の目的を満たすよう労働を提供している人たちがいます。人間一人一人は、数多くの物やサービスを必要とするので、社会生活を営む全ての人が、知らず知らずのうちにこの分業と交換という自発的な助け合いの網の目の一員になっているのです。

ところが、社会の中で生産される量と購入される量はいつも「ぴったり」と一致するわけではありません。自分の願望を満たすのに十分なだけ物やサービスが購入できるわけではないので、同じものでも人間は出来るだけ安い物を探します。その分浮いたお金でさらに他の物やサービスを買うことが出来るからです。また、作って売る側も、皆んなが安い物を求めているのを知っているので、出来るだけ生産の費用を抑えて安く品物を提供できるように努力します。今までと同じ労力で今までの三倍の製品が作れるようになれば、今までの半額で売っても今よりも収入が増えることになるので、安く製品を作るということは作る側には得になるのです。

ところが誰かが今までよりも安く製品を作るようになると、同じ製品でもそれらを安く作ることが出来ない人たちの作っているものは売れなくなって余ります。つまり作った品物の量が、人々が購入する量と一致しない状態が生まれます。人々が物やサービスを購入するのは自分の必要や目的を満たすためであって、誰かが作ったものを余すことなく購入することではないので、これは当然の結果です。自分の作った品物が売れないで余るということは、労働力を使ってこの品物を作っても、その労働の成果を今までのように他の物と交換してくれる人が社会からいなくなるということです。

このように、ある製品を誰かが今までよりも安く生産するようになると、失業する人が出てきます。作られている製品やサービスが余るということ、またそれらを作るための特定の労働がもはや社会の中で求められなくなるという現象は、品物が安くなったときだけではなく、世の中に今まで存在しなかった便利な製品が登場した場合にも起ります。

例えば、洗濯機は洗濯に必要な時間と労力を大幅に減らしました。お陰で人々は、浮いた時間を他の仕事に回すことが出来るようになったのですが、洗濯機が普及するにつれて洗濯板が売れなくなりました。その時に洗濯板とともに、洗濯板を作るという労働は必要とされなくなったので、洗濯板を作っていた人の多くは仕事を失ったはずです。

人々が自分の意思で自分の肉体を使って労働に従事しさらに労働の成果を自由に消費・交換出来る社会では、常時、より安くより便利な製品を開発して自身の収入を上げようと努力している人々が存在します。そして、時折彼らの努力が実を結んで新製品が売れるようになるということが起る限り、その結果として、それに取って代わられた商品が売れなくなることと失業が生まれることは避けられません。

では、今まで社会で求められていた労働を提供することで自分が必要な物やサービスを得ていた人が、自分の労働がもはや社会で求められなくなった時には、どうすればよいのでしょうか。その人たちは、もはや売れなくなった物やサービスを生産することを止めて、人々が求めている何か別の物やサービスを見つけて生産し始める必要があります。

どんなに物が安くなっても、また便利なものが出来ても、人々が購入できる物やサービスの量に限りがあり、従って人々が物やサービスに優先順位をつけて購入しているという状態には変わりはありません。失業した人たちが新しく職を得るということは、今多くの人々が購入しようとしているものを安く作るか、あるいは彼らが今購入しようとしているものを諦めてでも求めたくなるような新しい物を作るしかありません。

人々が求めたくなる新しい製品を開発することはもともと容易なことではありませんが、そのような新しい製品は多くの人々の工夫と根気と試行錯誤を通じて生まれてきます。そして、新しい製品の売れ行きが伸びたときには、この製品を生産するために新たに人が雇われるようになります。そして、その製品の普及によって人々の生活はより便利になり、時間を節約できるようになります。浮いた時間をさらに労働に費やして収入を上げることも出来るし、新しい技能を身につけることも出来るし、また、空いた時間を使って家族と過ごしたり、趣味に没頭することも出来ます。新しい製品が生まれることを通じて人々は豊かになるのです。

ところが、この新製品の登場と成功と同時に売れなくなる製品があり、失業する人たちがまた出てきます。人々の生活が豊かになってゆくということは、この、「ある産業が衰退し新たな産業が興る」という過程の繰り返しです。他の人が求める物やサービスを新しく提供しようと努力する人たちの成功によって失業は生み出され、また人間の努力と成功によって失業は克服されるのですが、この過程が繰り返される限り、社会の中で失業が完全になくなることはあり得ません。
このように失業は社会が豊かになる過程で衰退する産業がある限り避けられない現象ですが、この失業をケインズはなくそうとしたわけです。


ケインズの言うところの失業をなくす処方箋というのは、簡単に言えば「社会の中の生産量と購入量を政府の支出によって辻褄を合わせて等しくする」というものです。失業者がいるということは、その人たちの労働あるいは労働の成果を購入しようとする人たちが社会に存在しないということです。だから、政府が人々から税として金を巻き上げるなり、あるいは政府が人々の貯金を国債と交換するなり、あるいは中央銀行が紙幣を増刷して増刷分を政府に与えるなりして得た金を使って、政府がピラミッドを建てたり(*)、空き瓶に紙幣を入れて廃坑にゴミで埋めるなどして無理やりにでも仕事を作れば、失業はなくなるというのがケインズの提案です。

しかし、ケインズは人間が社会的な動物であるということを忘れています。私は、人間は人に求められる仕事、人に感謝される仕事を、苦しいながらも遂行した時に満足感を得る社会的動物だと考えます。人間は、ただ「労働するために労働する」のではありません。失業して収入がないことは苦しいことでしょうが、誰かが空き瓶に入れて生ゴミの中に深く埋めた札をわざわざもう一度掘り返しても、世界中で誰一人この「政府でっち上げの穴掘り仕事」の成果を必要とし、それを自分の労働の成果と交換しようという人はいません。つまり、誰一人この穴掘り仕事に感謝する人はいません。はっきり言えば、こんな穴掘りは誰の役にも立たないのです。またこんな穴掘り仕事は、分業によって物やサービスを生産しその交換によってお互いの必要を満たすという人間の経済活動でさえありません。

さらに、人間が自分の労働の代価を交換して物やサービスを得る目的は、ただ単に社会で生産された物やサービスの全べてを消費することではありません。人には自分の好みや目的があり、個人個人はそれに合わせて必要な物やサービスを自分の収入の範囲内で購入しています。政府に自分の貯蓄を強制的に奪われて、自分が欲しくもないピラミッドを建ててもらっても、人々個人個人の必要はそれによって満たされることはありません。

確かに、失業はそれを経験している人には大変な苦痛です。しかし大切なのは、失業している人が、他の人々がどんな労働や物を求めているのかを探し出してその欲求に応じた生産活動に移行するということです。ある種の労働が社会の中で不要になるということは、見方を変えれば、その労働を提供していた人々が今現在社会に存在しない物やサービスを開発し生産することに従事できる余裕を社会は獲得したということです。失業は社会が新しい物を創りだす原動力でもあります。それを、失業をなくすという理由で、ただ社会全体の生産量と消費量の数値の辻褄あわせのために、消費を増やすために政府の支出を増やして札を生ゴミの中に埋めたりピラミッドを建てたりしても、社会を構成する個人個人の必要を満たす新しいものや役に立つものは全く生まれて来ません。

大衆にとって失業が人生で一番の苦しみだ、だから、政府が大衆の金を私の言うように使えば失業がなくなるし、そうすれば大衆は幸せな一生を送ることが出来る、ケインズはそう思っているようです。ところが上で述べたように、失業は人間が苦労し努力し試行錯誤する過程から必然的に生まれる社会現象です。そして、また人間は苦しみと努力を通じて失業を乗り越えます。そして、その過程で何か新しい物が創造され、それが積み重ねられて文明が築かれるのです。

ケインズは、偉大な発明とか知的な創造は自分のような「知的エリート」の専売特許であって、「大衆」とは全く縁のないものだと考えていたのかもしれません。しかし、人類の歴史を見ると、石器、土器、青銅器、鉄器、農業、それに多くの重要な農作物など、人類の文明の基礎となる重要な発見は、多くの無名の人々の生活から生まれてきたことが分かります。「大衆」には、生ゴミの中から瓶を掘り出したりピラミッドを建てるための労働というような、ケインズ本人も「非創造的」と思っていたに違いない無意味なことをやらせておけばよいと考えた彼は、苦しみと悩みと必要の中から様々なものを創造して文明を築き上げた人間の能力をみくびっています。

(*) John Maynard Keynes (1936) The General Theory of Employment, Interest and Money, London: Macmillan, p. 129.

以前のコラムも合わせてご覧下さい:
どういう時に人は豊かになったと感じるか?


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