Scene19 アイム・ノット・イン・ラブ  | ALOHA STAR MUSIC DIARY ディレクターズ・カット

ALOHA STAR MUSIC DIARY ディレクターズ・カット

80年代の湘南・・・アノ頃 ボクたちは煌めく太陽のなかで 風と歌い 波と踊った。

ヘッドフォンから流れ始めたイギリスのバンド、テンシーシーの「アイム・ノット・イン・ラブ(I'm Not In Love)」――

その淡く儚げな旋律は、生ぬるい空気をしっとり湿らす、梅雨空の生み出す時間(とき)の流れと違和感なくシンクロし続けている。


一九八三年六月十三日(月)中学三年の一学期、午後三時半前、

小雨そぼ降る学校帰り、曲が終わると僕は左耳に挿してたヘッドフォンをはずし、隣を歩くマレンに訊ねた。

「そういえばさぁ、お母さんの検査結果ってどうだった?」

それは、もしかしたら単に太陽を遮る薄曇りの空のせいだったのかもしれない――

でも、いつもとは少しだけ様子の違う、彼女のどこかよそよそしい態度に、何となく僕のほうから「そう訊かなきゃいけない」ように思えたんだ。

「うーん、まだはっきりとは、いってくれないんだけどね……」
マレンはヘッドフォンの片一方を僕に手渡し、そう呟いた。

水色の傘で顔は隠れていたけれど、きっと彼女は、ずっとうつむきながら話しているんだろうな、と思った。

やがて少し時間を置いて、
「……でも、やっぱりちょっと入院するみたいなんだよ」
と、マレンは弱々しい口調で、そう微かに声を発した。

「えっ、そうなんだ……でもさぁ、ウチの親父も、ついこないだ入院してたしねぇ」

無理やり明るく笑ってみたけれど、さほど慰めにもならないような、そんな言葉くらいしか僕には思い浮かばなかった。

(こんなこといわなきゃよかったな)

と、いってしまってから少しだけ後悔する――

マレンは、こないだ初めて「結婚」という言葉を口にした。

彼女がどの程度ホンキでいっていたのかはわからない。

別に深くは考えたりしないんだけど、何となくその言葉の残響が、いまだに僕の心のどこかでこだまし続けている。

「もし、マレンと一緒に暮らすんであれば、それならそれで構わない」

そう思いながらも、永遠に彼女と一緒に暮らすってことの答えは、無意味に先へ引き延ばそうと僕はしている。


あの日、「結婚」という言葉の中に含まれたリアルな未来に触れたとき……変ないい方だけど、なんだか自分の人生を一瞬、ものすごく小さなものに感じてしまったんだ。

将来、何をするか……、ましてや誰と結婚するかなんて、もっとずっと先に考えればいいんだろうって勝手に思い込んでいたからだ――


「だからさぁ、このあと、家帰ったらお母さんの入院の準備とかいろいろ手伝わなきゃいけないのよねぇ」
マレンは、傘の向こうでため息を吐き出した。

「どのくらい入院するとかってわかってんの?」
僕は傘に隠れた彼女の横顔のあたりへ訊ねた。

「うーん、そうねぇ……でも長くても十日間くらいだとは思うんだけど」

マレンは左の掌を空にかざすと、ちょっとだけ雨雲を見上げて水色の傘をたたんだ。そしてようやく今日初めて僕のほうをちゃんと見つめた。

そんな彼女の大きな瞳は、不安と哀しみの色調に充ち溢れていた。

(きっと大丈夫だよ)

そういうべきなんだろうと、僕は思った。 

けれどそんな曖昧な言葉じゃあ、いま彼女の抱え込んでいる不安をすべて消し去ることなんてできないだろうな、とも思っていた。


「あっそうだパル、今年の夏休み、また遊園地に連れてってよ」
マレンは急に、僕のほうへ笑顔を向けたが、また、すぐ足元の水溜りを見つめてしまった。

「あぁ、別にいいよ」
僕は、無理して微笑む彼女の横顔を見つめ続けた。

「なんか、ここんとこお母さんのことがちょっと心配だったんでさぁ、もしね、お母さんが退院したら、すんごく楽しいことがやりたいんだよねぇ。もうとにかくハジけまくりたいんだよぉ。だから、とりあえずはね、まず『遊園地には絶対行く』ってもう決めたんだ。わかった? パル、絶対行かなきゃダメだよ」

ふたたびマレンと目が合うと、僕は黙って頷いた。

このところ、ほとんど間違わなくなっていたけれど、今日にかぎってマレンは中三になってから呼び始めた「カミュちゃん」じゃなく、昔みたいに「パル」って僕を呼んでいた。

僕のほうから、なにか違う話題を探さなきゃと思ったけれど、マレンが無理していつも通りの彼女を装っているのが痛いくらいに感じられると、なんだかものすごくせつなくなった。

そのせつなさが大きくなるほど、どういうわけだか僕は、無性に彼女を抱きしめたくなってしまった。

それは去年のクリスマスの夜とは、あきらかに別の感覚だろうとは思う。

よくわかんないけど、哀しみを抱え込んだ、今の彼女を救えるものは、きっと安易な慰めの言葉なんかじゃないのだろう。そんな気がしたんだ。

――ポツリ――

雨粒がひと粒、頬に当たった。

結局、彼女を抱きめることも慰めることもできぬまま、足元の路面がだんだんと黒い粒状の染みで重たく覆われていくのを、ただ僕はぼんやり眺めた。

「絶対だよ、遊園地だからね」
濃い灰色の雲を見上げてマレンがそう念を押した。

「いいよ、わかった。どこでも行こうよ」

「んもう、ちゃんと遊園地に行くんだからね……カミュちゃん、絶対連れて行ってよね」

(やっと『カミュちゃん』って、呼んだな)

「わかったよ、遊園地でしょ。ちゃんと連れて行きますともよ」


当然、マレンのお母さんの容態と遊園地とが、同じ「重み」なわけなどはなかった。けれど、いまの彼女にとって、僕と一緒に遊園地に行くってことだけが、つらい現実を忘れられる唯一の支えになっているのだ。

僕がマレンの彼氏である以上、どんな願いでもちゃんと叶えてあげなければならない。それが僕の使命なんだろうなって、そう思っているのは確かなはずなんだ。

だからマレンが今、もう一度ホンキで「結婚して欲しい」と、この場でいったのならば、きっと「いいよ」って、すんなりいえそうな気もするんだ。

だけど僕のほうから、その言葉を彼女に伝えることがどうしてもできなかった。

「いつか結婚しようね」って、もし冗談ぽくでもいえたとすれば、少しはマレンが救われるんだろうなって、ずっと心で思っているくせに……なんでそれがすんなりいえないんだよ。

まったくもう、ホントに自分が嫌になる――――