Scene15 鎌倉ラプソディ 第四節 | ALOHA STAR MUSIC DIARY ディレクターズ・カット

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80年代の湘南・・・アノ頃 ボクたちは煌めく太陽のなかで 風と歌い 波と踊った。

 一九八三年九月十三日(火)午後十一時少し前――

「うわぁすごーい……とまではいわないけどね」

そう笑った林ショウカは、「高欄」と呼ばれる太い丸太の手摺りに掌を置き、山門二階の楼上を一周している回廊から境内を見渡していた。

小さな背中に羽織られたショウカの影は体を抜け出し、板張りの通路に真っ直ぐ脚を伸ばして座っている、僕の上へと寝転ぶように折り重なっていた。

原色の花々は、陽射しを浴びるほどに、その色彩を色めかせてゆく。けれどこの場所では、陽射しは微かに感じられればそれでいい。

きっと濃密な影のなかにこそ、この居心地は成立し得るのだ。

森羅する老木たちの透き間を縫って、緑々しさを運ぶ海風、時折漂う線香のつつましやかで沈静な香り、いたわり合うよう会話を交わす鳥たちのさえずり、僕のあらゆる感性は、好意的にそれら鎌倉の風情のすべてを受け入れていた。

内ポケットで回り続けるカセットテープは、さっきランディ・ヴァンウォーマーの『アメリカンモーニング』に曲が変わった。清々しいアコースティックギターの音色に重なる甘い歌声が、早秋の情緒を装いはじめた、この山門からの眺望を殊に引き立てた。

「桟唐戸」という観音開きの木製扉に寄り掛かる僕の左で、李メイは細い両脚を斜めにし、静寂の柔らかな影にその身を委ねている。

ゆるやかな時間の流れに佇むショウカは、ピンクの靴下を履いた小さな足の裏を、つま先立ちで片方見せて、スカートの裾を、膝のあたりでそよがせ続ける。

田代ミツオは回廊の角からぼんやり下を見ていた。

僕の頭上には、四方の縁を波の模様で装飾されて、右側に「建長興」、左に「国禅寺」と三文字づつ、立体的に金色文字を浮かばせる巨大な扁額が、斜め前方に傾いて、正面へせり出すように掛かっていた。

その額縁が固定された巨大な屋根の軒下には、ぐるりと二重に囲うよう、無数の垂木が等間隔で並べられていた。

そんな重厚な屋根を支えるように、「斗?(ときょう)」と呼ばれ、軒裏を水平方向に走る巨大な横柱の荷重を受ける四角い三つの斗(ます)と、その台座である肘木が組み合わさった装飾部材が各列三組づつ、下から段々状に外側へせり上がるよう、八列ほどが壁面上部から突き出ていた。

その幾何学的なフォルムが美しいな、と僕は思った。

ふいにショウカが後ろを振り返った。
彼女の長い黒髪は、回廊の影を漂う風にそよいでフワッと真横に広がった。巻き取るように指先で押さえ、彼女はそっと唇を開いた。

「さっき田代君がお金を取られたときにね、急に思い出しちゃったんだ。昔のこと」

僕はヘッドフォンを外すと彼女を見、思わず、昔のこと? と聞き返した。

ショウカは脚を斜めに折りながら回廊に座り、儚さの滲んだ瞳で寝そべる僕を見つめた。

「うん。アタシ小学校二年のとき、横浜から転校して来たんだけど、ずっとアメリカンスクールに通ってたから、あまり日本語とかうまく話せなかったの。最初の頃は『話し方がおかしい』ってバカにされてたんだけど、ある日、集めてたキャラクターのシールをね、クラスの女の子にあげてから、みんなアタシと仲良くしくれるようになったの」

小さな声を上ずらせ、うつむくショウカに何も言葉を掛けられず、僕はやむなくメイを見つめたが、メイは、すべてを吐き出させてあげようと、無言のままにいた。

「それからね、学校帰りに、よくみんなで文房具屋さんとかに行ったりしてさぁ。アタシ、ほんとにいろんなものを買ってあげたんだよ。けど、そのうちだんだんと要望がエスカレートしはじめて、『ぬいぐるみが欲しい』とか『靴が欲しい』とかって、みんないい出してね、そのたんびにお母さんにお願いして、それを買ってもらって、友達にあげてたんだよ。だって、みんなの喜ぶ顔を見るとね、アタシ、本当に嬉しくなれたから……」

そう懐かしむショウカの声色は、哀しみの薄膜を次第にコーティングしていく。

「でもある日、友達が『自転車が欲しい』っていってきてね、アタシ、『さすがに自転車は、すぐには買ってもらえないよ』って笑いながらいったの。そしたらね、『だったらアンタとは、もう友達なんてやめる』って……いきなりその子がおっかない顔していったの。アタシ、そんなの嘘だと思った。だって、いつもあんなに喜んでくれてたのに、たったそれだけのことで……アタシが自転車を買ってあげないってだけのことで『友達をやめる』なんていい出すなんて思いもしなかったから」

ショウカの長いまつげは透明な涙に潤っていった。

寝そべる僕は、慌てて身を正し、あぐらをかくよう座りなおした。メイはショウカの横顔をただ見つめていた。

全然気付いてなかったわけじゃないんだ……、と口許にショウカは嘲笑を浮かべた。

「アタシに『欲しい』っていえば、なんでも買ってくれるって……だからみんなアタシの周りに集まって来てるんだってね、わかってたの。だけど、きっと、それだけじゃないんだろうなって思ってたの。たったひとつ、何かを買ってもらえなかったからって、今まで買ってもらった物まで、全部清算されちゃうなんて誰も思わないでしょ」

ショウカは右手の人差し指で目尻を押さえ、潤んだ瞳を僕へと向けた。

さらさらと揺らぎ続ける彼女の髪には、まるでプラチナのティアラを冠するかのよう、白銀色の反照が浮かんでいた。そんな眩い光輪の輝きに、人は自ら宿した色味だけで、これほど美しい光彩を放てるものなのか、と思いながら僕はショウカに訊ねた。

「それで結局どうしたの、その子に自転車を買ってあげたの?」

涙の雫が順番にショウカの顎の先端へ煌めきの滴を溜めていく。あとから伝った涙に押され、先にとどまる哀しみの結晶が、スカートの上へ一粒ポタリと落ちた。

「ううん、結局、親には頼めなかった。もし買ってもらった物を、アタシが友達にあげてたことがバレちゃうと、何も買ってもらえなくなっちゃうって思ったから」

ショウカは、まつげに溜まった涙を人差し指にほんのり含ませると、濃い墨色の影を宿した頭上の扁額を見上げた。

「でもね、次の日から『アタシと話すのはもうやめよう』って、なんだかみんなのあいだでは、すっかり決まっちゃってたみたいでね。もう誰も話し掛けてくれなくなった。ううん、一方的にいろんなことはいわれてたけど、それはもう会話じゃなかったよ……」

震えるショウカの想いが、お香の匂いとともに影のなかを揺らいだ。

「本当に辛かったでしょ、まだ小学校二年生だったとすれば」

メイの声色は哀しいほどに優しく、ショウカはとうとう声をあげて泣きはじめた。

「アタシはみんなのために、みんなが喜んでくれると思ったから……それなのになんで『ドケチな外国人』とか『とっとと国に帰れ』とかっていわれなきゃならなかったの」

メイはスカートを押さえて立ち上がると、顔を覆って泣きじゃくるショウカの前に膝をつき、その長い黒髪を胸の内へと引き寄せた。

しゃくりあげるたびに大きく揺れるショウカの小さな背中を、慰める言葉も知らずに僕は見つめるばかりだった。

「ワタシにはアナタの気持ちがよくわかるの。ワタシたちが今までどれほどの哀しみを心に溜めてきたのかなんて、きっと他の誰にもわからないから」

沈黙の風に香煙がたゆたい続ける。ショウカはただ儚さを声にしていく。

「……でもねメイ、アタシはきっとメイとは違うよ。だってアタシ……どうしてもみんなのことが許せなくって、本当にどうしても許せなくってね、だから上級生たちにお金を渡してお願いしたんだよ、『毎日、おもいっきりみんなをイジメて』って。怯えるその子たちの顔を見てね、アタシ笑ってたんだよ……だからアタシも同じくらい残酷なんだよ、他の子がどうこうなんて、ホントは絶対いえないんだよ」

メイはショウカの髪を撫で続け、ショウカは内なる胸の苦しみを吐き出し続けた。

「その年の夏、お爺ちゃんが日本へ来てね、アタシ、そのことをお爺ちゃんに泣きながらいったの。そしたらお爺ちゃん、『絶対に許さん』ってものすごい怒ってね、少し経ってから、『自転車を買え』っていった子のお父さん、会社をクビになって、その子もどっかへ引越しちゃったんだ。全部ね……きっとアタシのせいなんだよ」

「ワタシにはわかるの。アナタの気持ちのすべてが……」

いたわりの心情を込めてそうささやくメイの言葉は、遠くに聴こえるメジロのさえずりよりも、ずっと美しく響いた。

「ショウカが、ものすごく後悔し続けてきたってことも、ちゃんとわかってるから……それにワタシはね、子供の頃、ショウカよりも、もっとずっと大きな罪を犯してるのよ」

(えっ、メイが罪を犯したって? いったい彼女が何をしたっていうんだろう)

その言葉がなんだかやけに気にはなったが、何もいわずに僕は、微笑むメイの横顔をジッと見つめ続けた。