オーストラリアのバンド、ムービング・ピクチャーズが去年リリースしたデビューアルバム『デイズ・オブ・イノセンス(Days Of Innocence)』の7曲目に収録された「いとしのシェリー(Sweet Cherie)」のエンディングフレーズがフェードアウトしていった――
ウォークマンの停止ボタンを押すとヘッドフォンをはずし、僕は南側の窓から晴れ渡る空を見つめた。
(しかし、昨日降った大雨はすごかったな。一瞬のうちに街の汚れがすべて洗い流されてしまった気がする)
このアルバム自体、今までまともに最後まで聴いたことなど一度もなかった。
けれど、中二のとき、
「この曲ってさぁ、なんだか、すごくせつなくなる曲だねぇ」
と、FM番組から流れてきた「いとしのシェリー」を初めて聴いたマレンが、やけに気に入ってたんで、なんとなくLPを買ってみたんだ。
たまたま今朝、カセットを選んでるとき、ふと、そんなマレンの言葉があたまをよぎった。
そしてほとんど聴くこともなくなっていたこのアルバムを、散乱したテープの中から探し出し、早速ウォークマンに挿し込んだんだ――
川澄マレンがこの学校を転校してしまってからは、たとえば、校舎の中を漂う質量としての大気の密度や、その重たさみたいなものにはあきらかな変化が生じていた。
なんだかものすごく軽く感じられるんだ。
目に映る景色の中の色彩も、どことなく輝度や彩度が物足りない。
きっと普通に竹内カナエや川上ナオら、周りの連中とは今まで通り会話をしていたけれど、あとになってから、さっきどんな話をしてたのか、まるっきり思い出せないことも度々あった。
おそらくは、あまり思考を介しもせず、ただ反射的に最低限のコミュニケーションを彼女たちとのあいだで成立させていただけに過ぎないのだろう。きっと――
一九八三年九月九日(金)中学三年の二学期、一時間目終了後の休み時間、
このクラスでは女子のほうが圧倒的に目立っている。
佐藤マキコだけは小学校の頃から知っていたが、そんなマキコのグループには二人、外国の苗字を持つ女子生徒がいた。
ひとりは、父親が台湾人だったと思うけど、林(リン)ショウカという女の子。彼女は小柄で可愛いらしいアニメ顔をしてたので、男子の中にも隠れファンは多い。
けれど僕は、もうひとりの少女の醸す、
揺らめく氷晶のともし火のような、危ういばかりの儚さに、不思議な魅力を感じてたんだ――、その子の名前は李(リ)メイという。
在日三世の彼女は、孤独色した絹糸を香水みたいに振りまいて、いつだって薄っすらみずからの周りに漂わせていた。
ショウカもメイも、小学校時代は、その名前のせいでかなり陰湿なイジメを受けていた、というような噂を聞いたことがある。
けれど中学三年になった今、彼女たちを表立ってイジメるようなヤツなどはもう誰もいなかった。特にメイの高校生の兄貴は、このあたりでも相当に有名なワルみたいなので、これまで散々彼女をイジメてきた連中は、いつかその兄貴に復讐されるのではないか、と本気で怯えているらしい。
目立つといえばもうひとり、ウチのクラスには小山ミチコという女の子がいた。
彼女も小学生の頃、ずっと悪質なイジメを受けていた、って誰かに聞いた気がする。いや、そのイジメ行為は、今もなお進行形で日々継続されていた。
そうしたイジメを率先して楽しんでいるのが「キンキン」と甲高い声で怒鳴り散らし、周りの生徒を脅しては、その輪の中心に居座ろうとする谷川ってヤツだ。
いつだって顔を黒ずませ、異様に目の小さい、まるで巨大なドブネズミみたいな風体の谷川は、ずっと少年野球チームに所属していたらしく、未だに坊主刈り以外の髪型をコイツがしているのを見た記憶はない。
理由なんて忘れたけれど、僕はこの谷川ってヤツと、小学校五年のとき、学校の校庭で喧嘩をしたことがあるんだ。
とはいえ、所詮はまるで抑揚のない、一本調子な掴み合いレベルのものだったけど、僕にとって、それはまさに人生初の記念すべき真剣勝負の決闘だった。
今でも鮮明に覚えているシーンは、谷川の片足を掴んでグルグル振りまわし、 校庭へ投げ飛ばしたときの映像。
そしていまだによくわからないのが、僕に片足を掴まれた瞬間、谷川が叫んでいた「お前、引っかかったな」っていう言葉の意味だ。あれって結局は、ただのハッタリだったんだろうか?
いずれにしたって、そこから先に、なんら特別な進展なんてなかったはずだ。つまり、きっちりと決着のつかないまま、僕らの決闘は終わってしまったんだと思う――
突然、うしろのほうで「ギャハハ」と、はしゃぐ谷川たちの大きな笑い声に、ぼんやり机の上を見つめていた僕は、ふと我に返った。
「また谷川たちがさぁ。ミチコに水風船とかぶつけてるんだよ」
川上ナオが赤らんだ頬を僕の右肩に近寄せ、小声でささやいた。
廊下側のほうを振り返ると、制服を水浸しにされた小山ミチコが、パーマっ気のある毛先からポタポタ水を滴らせ、ジッとうつむいていた。
さっきからウォークマンは、ずっとイギリスのロックバンド、ブラック・サバスが1970年に発表したアルバムの2曲目に収録されたタイトルトラック「パラノイド(Paranoid)」を再生していた。
僕は停止ボタンを押し、小山ミチコのラクダのように哀しげな瞳をただぼんやり見つめ続けた――
このところ昼休みに僕は何も食べていない。
大抵、ウォークマンを聴きながら寝ているんだけど、ついさっき、僕の最も敬愛するロックヴォーカリスト、グラハム・ボネットが、おととしリリースしたソロアルバム『孤独のナイト・ゲームス(Line-Up)』を聴いてる途中で、とうとうウォークマンの電池が切れてしまった。
このアルバムには、僕の好きなコージー・パウエルもドラムで参加してるんだけど、正直、作品としてはロックというよりポップスみたいな楽曲ばかりのアルバムだ。
収録曲の中で、フレーズをギターを弾いたとすれば、10曲目に収録された「二人の絆(Don't Stand in the Open)」を、中二の頃、「イウ」こと伊浦ナオトと、何度か一緒に爪弾いた程度だろうか。
あいも変わらず窓側の最前列を陣取って、谷川を中心とするグループの連中が大きな声でわめいてやがる。
「シーナってよぉ。どうやら『外人』が好きみたいだぜ」
グループの誰かが声をひそめてそう切り出す。きっとヘッドフォンをしたまま寝ている僕を見て、聞こえてないとでも思ったのだろう。
けれど今の僕には正直、苛立つ気力さえまったく起きなかった。
「おぉ、なんかアイツって、こないだ川澄と別れてから、すっかり落ち込んじまって、よせばいいのに今度は『外人』を狙ってるみてえじゃん。いっつもチラチラ窓のほうばっか見てるしな」
「まじか? よくあんな犯罪者の娘なんて好きになんてなるよな」
――外人――、彼らがそう呼んだのは、きっと李メイのことだ。
今まで兄貴を恐れてか、そんな呼び方なんて一度もしなかったけれど、ここ最近、特に夏休みが終わってから、谷川たちは陰でメイをそうやって呼び始めた。
さらに、マレンへのやるかたない想いにさいなまれ、すっかり覇気を失くした僕に対する挑発的な言動も、この頃やけに増えて来ている。
(勝手にいってろ)
僕は机にうつ伏したまま、そんなヤツらの声を無視した。
するとその声はだんだん小さくなっていき、やがて一瞬、まったく音がしなくなる。
数秒間、その沈黙は続いた――
と、突然、例の耳障りな谷川の「ギャハハ」と甲高いバカ笑いが教室内に響き渡った。
「オメェよぉ、残さずちゃんと全部食えよ」
嘲笑をはらんだ罵り声が白い天井ボードに跳ねっ返る。
「な~に泣いてんだよ! キモいんだよ。オメェはよぉ」
(泣いてる?)
僕は上体を起こすと、何気なく小山ミチコの座席のほうを振り返った。
小さな瞳に目一杯、涙を湛えた小山ミチコは、箸を持ったまま、茶色っぽい鉛筆の削りカスが山のように振りかけられた、小さなお弁当箱をジッと見つめていた。
「オメェよぉ! 早く食えよ。残すと先生に怒られるぞぉ」
クラスの何人かの生徒たちは、そんなミチコを見ながらクスクス笑った。
そう、クラスのヤツからしてみれば、それはなんら特別な光景などではない。
多少度が過ぎたかどうか、という程度の、至極ありふれた普段と変わらぬ風景だった。
「いいから早く食えゴミ女。テメエはゴミだけ食ってりゃいいんだよ!」
グループの連中は、そんな谷川の言葉につられて一斉に爆笑した。
つぶらな瞳からスッとこぼれる涙を親指の脇で拭って、ミチコは振りかけられたその鉛筆の削りカスを避けるよう、震える箸先を弁当箱のほうへゆっくり近づけて行った。
「みんなも見とけよ! コイツがちゃんと食うとこをさぁ。おい! せっかく『ふりかけ』をかけてやったんだから、とっとと食え。このゴミ女」
谷川はふたたび「ギャハハ」と笑った。
ミチコの頬を伝う涙は一向にとどまる気配を見せないままだ。
――早く食えっ! ゴミ女! 早く食え! ゴミ女!――
谷川が手拍子を入れてみんなを煽る。グループメンバーもみな手を叩き、そのコールに声を合わせた。
そういえば、今まで谷川たちからどれだけ陰湿なイジメを受け続けても、彼女はジッとうつむくばかりで泣いたことなど一度もなかった。
今日に限って痛々しいほど嘆き哀しむ、そんなミチコの涙を見ているうちに、なぜだか僕はマレンと最後に会った日の出来事を急に思い出し始めた。
薄曇りの空の下、あの鎌倉の海岸で無意味な言葉をひたすら吐き出し、マレンを傷つけてしまった激烈な後悔の想いが、だんだんと心の中で膨れあがっていったんだ。
あのとき、二人の終焉を覚悟したマレンが、その大きな瞳に浮かべた哀しみの色と、さっきからミチコがずっとこぼし続ける秋しぐれのように儚げな涙の色とが、時空を超えて僕の心で重なり合った。
(狂ってやがる……いったい……)
――お前ら、いったい何がそんなに面白ぇんだよ――
激烈な咆哮が、教室に漂うあざけりの気配を一瞬のうちに沈黙させた。
僕は机を蹴飛ばし立ちあがり、椅子を逆さにひっくり返すと右手でスチール製の脚を握って谷川たちのほうへと向かった。
グループのメンバーらが一斉に振り返った。やがて斜に構えて座っている谷川の前で立ち止まり、僕はうつろな瞳で、青々と五厘に刈られたコイツのあたまを上から見下ろした。
「なんだよ! オメェはよぉ」
こもった調子で脅すよう、谷川は下品な声を張り上げた。
そう、これが小学校五年の決闘以来、中学三年で一緒のクラスになってから、初めて面と向かって僕に対していい放った記念すべき谷川の第一声だった。
(しっかし相変わらず、気分が悪くなるような品のねぇ声を出しやがるな)
僕は椅子の脚を両手で掴むと、そのまま大きく振りかぶり、谷川の左肩へ真横からおもいきり叩き込んだ。
――バシィッ――
イッ、谷川は思わず小さな悲鳴をあげた。
僕は手にした椅子を、こいつらが向かい合わせにくっ付けている机のほうへとぶん投げた。その椅子は、手前に座る男子生徒の頭上をかすめ、大きな炸裂音を立てながら黒板の手前でバウンドした。
肩を押さえてうめく谷川の襟首を右手で掴むや、そのまま後ろへ引き倒し、僕は机の上に置いてあった食べかけの弁当箱を手にするなり、谷川の顔面めがけて叩きつけた。
プラスチックの容器が胸の上で跳ね上がり、顔から肩のあたりに冷えて固形化した米の塊と色味の少ないオカズが飛び散る。
椅子もろとも、くの字にひっくり返った谷川の右太ももを二、三度強烈に蹴り飛ばし、間髪いれずに右のわき腹あたりへ激しくつま先を突き刺していく。
あばら骨を押さえ悶絶する谷川の上体へ馬乗りになると、Yシャツの胸元を掴み上げ、米粒だらけの顔を見下ろし僕は言葉を吐き捨てた。
「なんならよぉ。今から小学校の時のケリつけるか。あぁ?」
――そう、これが一緒のクラスになってから面と向かって谷川に対していい放った記念すべき僕の第一声だ。
周りにいたグループのメンバーらは、何が起こっているのかさっぱりわからないような表情で椅子に座ったままピクリともしない。
床に寝そべる谷川も、苦悶の表情を浮かび上がらせ、ずっと押し黙ったままだ。
僕は谷川の首元をねじり上げ、いったん上体を起こすようグッと手前に引き寄せた。そのまま一気に突き押して、激しく床へ背中を打ちつけた。
――ゴツッ――
後頭部から鈍い音がした。さらにもう一度上体を持ち上げ、ふたたび床へ叩きつけた。
苦痛に顔をしかめる谷川の上からゆっくり離れると、僕は無表情のまま、さっきまでこの連中が寄せ合わせてた机を次々と蹴り倒していった。
――ガランガラン――
けたたましいノイズとともに倒されていく机上から、跳ね上がった色とりどりの弁当の中身が、飛散しながら宙を舞い、やがて床の上へとパラパラ乱れ落ちてきた。
「あのよぉ、さっき俺のこと話してたのって誰?」
今になって、メイのことを「外人」と呼んでたヤツのことがどうしても許せなくなったんだ。
「お前か?」慌てて椅子から立ち上がったメンバーの中で、とりあえず一番近くにいたヤツを睨みつけると、ソイツは慌ててかぶりを振ってすぐさま別の男子生徒を指さした。
さされたヤツに無言で近づくなり僕は上体をひねり、ソイツの鼻っ面めがけて、真正面から右ストレートで殴り飛ばした。あたまを後ろへ大きく反り返し、その反動で男子生徒の体は前かがみに腰からガクッと折れ曲がった。
「さっき寝てたんでよく聞こえなかったんだけどさぁ。もう一回いってくんないかな」
ポタポタ床に垂れてきた鼻血を押さえてうめくソイツの耳元で僕は静かに呟いて、左足の裏でおもいっきり胸元を蹴り飛ばした。
かかとを教壇の段差につまずかせ、男子生徒はもんどりうって後ろへひっくり返った。
「なぁ、ちゃんと聞こえるように、もう一回はっきりいってくれよ」
仰向けに倒れ込んだソイツの右鎖骨を上履きで踏みつける僕は、笑って言葉を吐き落とした。
「いえ、別に……」
男子生徒は恐怖に顔を引きつらせ、定まらぬ視線で僕を見上げた。
後ろを振り返り、僕は唖然としている他のメンバーたちに訊ねた。
「あのさぁ、たしかもう何人かいたよな。さっき俺の話してたヤツが」
メンバーたちの顔からは一様に血の気がスーッと引きはじめていく。彼らを睨みつけたまま僕は大声で叫んだ。
「ところでテメエらよぉ! 床の上の食いもん、ちゃんと残さず全部食うんだろうな。残すと先生に怒られるんだろ?」
さらに、起き上がろうとしていた谷川に目を向け、静かに吐き捨てた。
「で、どうすんだ? 今から校庭でも行って、サシで最後までケリつけるか?」
谷川は上体を起こすと、しばらく無言で僕を睨んでいたが、やがてうなだれ、肩先を見つめるように一度だけ首を横に振った。
クラスの中はシーンと静まり返っていた。
足元に転がるプラスティック製の弁当箱を蹴っ飛ばし、さっき黒板のほうへぶん投げた椅子を手に、自分の席へ戻ろうとしたとき、呆然と僕を見つめる小山ミチコと目が合った。
座席に椅子を戻すと、座らずそのままミチコの脇を通り過ぎ、僕は廊下へ出て行った。そのとき、ミチコが小声で何かを呟いた気がした。
――ありがとう――
そういった風にも聞こえたけれど、もしかしたら気のせいだったのかもしれない。
けれど別にお礼なんていらない。ミチコのためでもメイのためでもない。
ヤツらのバカ騒ぎがウザかったから。
ただそれだけのことだ。