rainmanになるちょっと前の話。26





インド北部中央に位置するバラナシ(ベナレス)という街は、アジア各国に点在する「街」と呼ばれる集合体の中でも、一際異彩を放つ存在感を持ち、独特なオーラに包まれた、一度訪れたら忘れられない印象的な街である。


首都ニューデリーやカルカッタなどの巨大都市に見られる喧騒的な顔も、バラナシでは垣間見ることが出来るのだが、街に流れるガンガー(ガンジス川)とその淵に作られたガートと呼ばれる沐浴場の存在によって、都市のイメージだけではない、どこか懐かしい人間そのものの故郷に戻ってきたような不思議な安心感がこの街にはある。


俺はインドをイメージするときはいつもバラナシの景色になる。最もインドらしいインドがバラナシにはあるような気がする。



2000年12月末、3ヶ月に渡り滞在していたネパール・ポカラを出た俺は、3年ぶりに、ここバラナシの街に足を踏み入れていた。


ホテルひまりで生活していたメンバーとも、到着した次の日に無事に再会を果たした。
一人また一人とポカラの町を出ていったメンバーだったが、それぞれがそれぞれのルートでここバラナシに辿りついていたのだ。


ポカラでライブをしたTHE JETLAG BAND!!!のメンバーでは、Nさん、C君、T、そしてOちゃんが滞在していた。また、バンドを支えてくれたBOSSやK君、Zさん達もいた。
その中に、俺と2匹のパンクスW君と8ちゃんが加わったわけだ。


ポカラライブを開いたときのあの興奮が、少し蘇ったような再会だった。俺らは共にライブをしたことによって、戦友同士のような強いつながりになっていた。



みんなは、大きく二つのホテルに別れて滞在していた。
3年前に俺とZさんが出会ったガート沿いの老舗ホテル「ビシュヌレストハウス」と、ガンガーと大通りの間に広がる迷路のような細い路地地帯の中にある比較的新しい「ウルバシゲストハウス」。
二つのホテルの距離は、迷路を迷わずに歩けば10分程度だった。


俺は最初ウルバシGHに泊っていたのだが、その後ビシュヌRHに移った。
やはりビシュヌRHは、庭からガンガーとガートが見下ろせるという最高のロケーションがついてくる。多少部屋は古いが、この景色には適わないのだ。


ビシュヌRHにはZさんも泊っていて、3年前の話などもよくした。
まさか3年後にこうしてまたZさんと、ここビシュヌRHで遊べるとは思っていなかった。しかも、今回は他にも仲間達がたくさんいる。
前回、孤独とインドに対する恐怖でいっぱいになっていた俺には考えられない状況だった。



俺は毎朝、Zさんと共にビシュヌRHの真下のガートに下りて、ガート沿いのチャイ屋でチャイを飲んで過ごすのが日課だった。
ガンガー沿いにはいくつものチャイ屋があるのだが、ビシュヌRHの真下にあるコーリーガートを仕切るチャイ屋がZさんのご贔屓だった。
そこは、子供たち兄弟が運営を任されていて、チャイの他にもお菓子やタバコなどが売っており、またガンガーの対岸や上流まで向かう手漕ぎボート等も貸し出していた。
子供たちと言っても、ガンガーガート沿いで生きている子供を日本の子供と同じように見てはいけない。彼らは物心ついたときから、外国人と接触し生き延びるために様々な知恵や外国語を身につけお金を稼いできている。
10歳になればもう立派な大人であり、20歳になっていればもうその一帯をまとめるボス的な存在になっているのだ。



Zさんは、このチャイ屋の子供たち兄弟とも仲がよった。
俺に、「一番上がジャグー、次男がパガル、三男がサンジェイだよ」なんて名前を教えてくれた。
長兄のジャグーは、この時20歳だと言っていたが、とても落ち着いた感じで25歳の俺よりもはるかに年上に見えた。弟やその周りの子供たちのジャグーへの接し方を見ても、かなりの権力を持っているようだった。Zさんは、ジャグーを指し「まぁ、あいつはこのへんを仕切るマフィアのボスみたいなもんやね」などと真顔で言った。


またZさんと一緒にチャイを飲んでいる時、よくインド人が勝負を挑んできた。もちろん俺にではなく、Zさんにだ。
実はZさんはプロボクシングのライセンスも持つ格闘家でもあるのだ。
ガート沿いの敷地には現地の人が体を動かすトレーニング場などもあったりするのだが、Zさんはそこで他のインド人達と「筋トレ」や「寸止めの組み手のようなもの」を一緒にやり、よく汗を流していた。
それを知っているインド人達が、「俺とも勝負しろ」とチャイ屋の前までやってくるのだ。
その勝負にいつもZさんは勝ってしまうので、負けたインド人が次の日自分より強い友達を連れてくる。おかげで毎朝、俺は目の前で日本人とインド人の奇妙な決闘を見ながらチャイをすすることになる。


そのうち、毎日決闘を見ている俺自身も、なぜか触発されて、Zさんにコーチになってもらい、毎朝トレーニング場で筋トレをするようになったりした(笑)。旅でなまっていた身体を動かして汗をいっぱいかくのは気持ちよかった。まぁ、あまり長続きしなかったが(笑)。



バラナシでは他にも、Tシャツ作りにも精をだした。
刺繍で模様を描くネパールとは違い、インドはシルクスクリーンで印刷するTシャツ作りが主流だった。
俺は「THE JETLAG BAND!!!Tシャツ」やWさん8ちゃんらと組んだパンクユニット「月の爆撃機Tシャツ」なんかを作って遊んだ。


安くてたくさん作れるので、近くにいた旅行者にもTシャツを分けたりしていた。
そんなことをしていると、自然に「インドではライブやらないの?」という話をされた。
この頃は、けっこうネパールでのライブが噂になっていたりして、初めて会った旅行者にも「あ!ポカラでライブやった人だよね?」と言われるようになっていたのである。
俺は、「さすがにインドではライブハウスはないだろうし、機材も揃わないし、無理っすねー」と答えていた。
タブラやシタールなどの演奏を聞かせる小部屋なんかはあっても、ライブハウスという文化はバラナシにはなかったのだ。




そうこうしているうちに、2000年の大晦日を迎える頃になった。


いよいよ20世紀も終わりである。


実はこの頃になると、俺の周りは少し異様な空気が流れていた。
俺に対して、あまり好意を持たない現地人などが現れてきたのである。
どうやら、俺らTHE JETLAG BAND!!!は少しこの街で目立ちすぎていたのかもしれない。
同じTシャツを着ている日本人が何人もいて、レストランにいけば店の屋上(VIPルーム)に案内され大騒ぎ。

そういう暮らしを見て、面白くないと思うインド人がいたとしても、気持ちはわかるような気がした。
俺自身、特に目立つつもりはなかったのだが、少し風変わりなイメージの濃い旅人が固まって遊んだりしていると、イヤでも目立ってしまうのである。



そんな雰囲気を抱える中、俺はガート沿いで数人の仲間達と21世紀を向かえた。
欧米や日本での「ミレニアム!」な年越しとは比べ物にならないほど、地味で静かな新世紀の幕開けであった。



無事に新年を迎えたはいいが、俺は新年早々体調を崩してしまった。


熱が出て、体がだるく、一日中部屋のベッドで過ごした。


新年も3日目を向かえた1月3日の朝、相変わらず風邪が治らずベッドで寝込んでいると、部屋のドアを叩く音が聞こえた。
誰だろう?とドアを開けると、そこにはZさんが立っていた。


「大ちゃん調子はどうだい?もしよかったら、ちょっとこれから出れないかな?ジャグーが呼んでいるんだ」
とZさんは言った。
「え?なんでジャグーが?」
俺は、風邪で弱気になっていたせいもあり「もしかしてマフィアのボス・ジャグーにまで嫌われちゃったかなぁ」なんて思ったりした。


「風邪だから」と、行くのを断ろうとも思ったのだが、Zさんも一緒だし、なるようになるかという気持ちで、Zさんと一緒に部屋を出た。


まだ熱があるせいか頭は朦朧としていた。


Zさんはガンガー沿いのガートを上流へ上流へとひたすら歩く。


洗濯場になっているガート、沐浴場となっているガート、死体焼き場となっているガート、いろんなガートを横切って進んだ。
ガートは様々な顔を見せるが、それら全てを受け入れるガンガーだけは進んでも進んでも同じ茶色の濁った川だった。



30分ほど歩いた頃、Zさんはある建物に入った。


後について入ると、中にはジャグーが居た。

ジャグーは俺を見ると手を出してきた。俺はその手を握り返し握手をした。
いったい俺にどんな話があるというのだろうか?


息を殺して黙っていると、突然Zさんが「大ちゃん、バラナシでライブできる場所探しとったやろ?ジャグーがなんとか出来るって言うんだよ。」と言った。


「え?!」
ジャグーの顔を見たら、俺を見てうなずいている。


「バラナシにそんな場所あるの?けっこう音もでかいし、人数も多いから小さい所じゃできないよ?」と俺は言った。
まだ半信半疑なのだ。



Zさんがその事をジャグーに伝えると、ジャグーは「大丈夫、誰にも迷惑かけず大きな音も出せるし、100人くらい集められる広さもある」と言う。


俺はびっくりした。


「いったい、そんな場所がバラナシのどこにあるんだい?」


ジャグーはまっすぐ俺の顔を見て静かに答えた。



「オン ザ ガンガー」



ガンジス川の上だと…。




続く。


※写真はシヴァリンガの前で読書をするZさん